神にはできるのです
マルコ10:23−31
一人の裕福な青年役人が、永遠のいのちを求めてイエスを訪ねて来た。しかし、「汝なお一つを欠く」(21節文語)とイエスから言われ、主の言葉に従うことができず、悲しみながら立ち去った。富への執着が強かったからだ。
立ち去る彼を見送りながら、イエスは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」(23節)と言われた。さらに主は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(25節)とまで言われた。「らくだが針の穴を通る」など全くありえないことだが、裕福なものが神の国に入ることはそれよりも難しいと言われるのだ。
弟子たちの驚きは当然だった(26節)。我らも、額面通り受け取るなら理解できない。「らくだが針の穴を通る」という譬(たとえ)を使われては、富の有無にかかわらず、だれ一人救われないことになる。イエスは何を言おうとされたのか。
イエスは、疑問をいだく弟子たちをじっと見て、「それは人にはできないことですが、…どんなことでも、神にはできるのです」(27節)と言われた。神にはできる。神は、どのような者をも、御子キリストの十字架の贖(あがな)いによって、神の国に入れることがおできになるのだ。
キリストは罪のない神の御子だったのに、十字架につけられた。それは、我らが罪から救われるためだった。天地を創造されたまことの神から心を離し、自己中心になり、地上のものばかり追い求めてきた我らを、神は深く憐れまれ、御子キリストを十字架につけられた。罪びとの我らが受けるべき罰を、神の子キリストが受けられたのだ。それによって、我らはもう罰せられることはない。罪が赦されて、滅びから免れさせられる。この救いを与えるために、キリストは十字架でいのちを捨てられたのだ。
このキリストの十字架を信じる者は、富・名誉・地位・知識のあるなしに関係なく、だれでも救われる。これが福音だ。我らの努力によるのではない。神のなさる救いのみわざだ。
ペテロが「ご覧ください。私たちは…」(28節)と言った。彼は“自分たちはあの立ち去った青年とは違う。富は無い、地位も無いが、何もかも捨てて従ってきた。そういう自分たちは何がいただけるか”と思ったのだ。この求めは非常に低い。何か具体的な見返りやご利益を期待している。彼は、従ってきたという自負が勝り、求めるべきものを知らなかった。「何もかも捨てて」と自信ありげに言うが、従ってきたという自分自身を捨てていなかった。自分を捨てていないから、求めるべきものが分からないのだ。
イエスの返事は「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者で…」(29節)という非常に厳しいものだった。厳しいが、キリストを知る知識の絶大な価値が分かれば、つまり、十字架の血によって罪から救われ、主の所有とされるという恵みが分かれば、捨てることは難しくない。そこまで為し給う主を愛する愛は、他のものへの愛に勝るはずだ。家庭を顧みなくなるのではない。自分のために執着することがなくなるのだ。
「どんなことでも、神にはできるのです」。神は全能のお方だ。すべてを御心(みこころ)のままに成し遂げ給う。天地創造の神は、我らの魂を、罪から救われた者、すべてをささげて主に従う者に造り変え給う。このお方に信頼して、勝利をもって進んでいこう。