わたしがいのちのパンです
ヨハネ6:22-59
本日の箇所は、イエスが人々に真理を語っておられる場面だ。人々はイエスが語られることがわからず、イエスのことで文句を言ったり、議論をしたりしている(41,42,52節)。それでも、イエスは決してあきらめず、語り続けておられる。それは、目の前にいる彼らだけでなく、今の私たちに向けられたメッセージだからだ。
直前には、五千人以上の人々がわずかなパンと魚で腹を満たした記事がある。その場にいた人々は、感動はしたが(14節)、イエスを信じず、肉欲を満たすことに執着した(15節)。イエスはそれを見抜いて指摘し(26節)、彼らを信仰へと導こうとされる(29節)。
彼らは、旧約聖書にあるマナの奇跡の話を持ち出した(31節)。モーセに率いられて奴隷の地エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野を旅する間、神が天から降らせたマナによって養われた(出16章)。実は、これこそイエスの指し示す真理の入り口だった。天から下ったマナこそ、キリストの型なのだ(33節)。そして、それを受け取る者の心こそが問題だった。旧約聖書が明記する。神がマナを降らせたのは、民が神に従って歩むかを試みるためだった(出16:4)。結果、民は神に従って歩まず、かえって傲慢で頑なな心を露呈させた(ネヘ9:15,16)。さらに罪に走り、神のみわざを信じようとしなかった(詩78:23-25,32)。今、イエスの目の前にいる人々も、同じだった。イエスが神のもとから来られた方だと悟らず、イエスを信じようとしなかった。
イエスは、ご自分をいのちのパンだと語る(35節a)。キリストのもとに来る者は飢えることがなく、キリストを信じる者は、「どんなときにも、決して」渇くことがない(35節b)。まず、キリストのもとに来ることだ。世にも私たちを満足させるものがあるが、どれも「なくなってしまう食べ物」だ(27節)。キリストのもとにこそ、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」がある。しかし、人がキリストのもとに来て、例え満足しても、キリストを信じなければ意味がない。キリストを信じて、その救いをいただくなら、魂の渇きが癒やされ、その人の内に泉が湧き上がる(ヨハ4:13,14,7:37,38)。平安、喜び、愛、希望が湧き上がる泉だ。この泉の水を与えるために、キリストの十字架と復活は成し遂げられた。キリストのもとに来て、泉の水を飲む者は、永遠のいのちの約束に生きる者となる(黙21:6,7, 22:17)。
53-58節のキリストの肉を食べ、血を飲むとは、キリスト内住の真理を表している。キリストの救いに与った者はやがて必ず、自らの内にある罪の性質に気が付く。いただいたキリストの救いを蔑ろにし、なおも神に背く実態、神よりも己が腹を喜ばせ、自分の満足を優先させる実態、聖そうに振る舞っていても、神が望んでおられる聖さに開かれない実態だ。今日の箇所の人々やマナを食べたイスラエルの民のようではないか。この肉を残す限り、私たちは外に追い出され、滅ぼされる(37節,ルカ13:23-28)。私たちがなすべきことは、自分の汚れた肉を認め、砕かれて神の御前に出ていくことだ。そうするなら、神は真実をもって私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働かれる(ガラ5:24,2:19b,20a)。これが、キリストの肉を食べ、血を飲むということだ。内にとどまってくださるキリストと共に生きる生き方だ(56節)。キリストが神の御心に生きられたように、キリストを通して神の御心に生きる(57節)。終わりの日にキリストと共に携え上げられ、神の御前で永遠に生きる(54,58節,黙7:14b-17)。
キリストこそ、いのちのパンだ。このキリストを信じているか、キリストの救いに与っているか、キリストを食して内にいただいているか、光を当てていただきたい。





