主は私の羊飼い
詩篇23:1-6
詩篇23篇は、聖書の中で最もよく知られ、愛唱されている箇所だろう。神と私たちとの関係が、羊飼いと羊との関係に喩えられ、神の愛がわかりやすく描かれているが、それだけではない。私たちの信仰のあり方を問うメッセージが語られているのだ。
この23篇の中心である1節は信仰告白だ。信仰によって、主を私の羊飼いと告白し、乏しいことがないと言い表すことができる。
まず必要なことは、魂を生き返らせていただき、義の道に導いていただくことだ(3節)。私たちは、かつては神から離れ、罪のために魂が死んでいた者であった。まるで羊飼いのいない羊のように、弱り果てて倒れ(マタ9:36)、滅びを待つばかりの者だった。しかし、神はそんな私たちを憐れみ、ひとり子キリストを遣わしてくださった。私たちを探し、見つけ出し、連れ帰るためだった(マタ18:12,13, エゼ34:11-16)。キリストは、十字架にかかって血を流し、いのちを捨ててくださった(ヨハ10:11)。そして、死を破ってよみがえられた。キリストの十字架と復活によって、私たちの救いは完成した。どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。魂を生き返らせていただき、神のもとに帰り、牧者であるキリストを信じる生き方を始めていく(1ペテ2:25)。
こうして救われた者はやがて必ず、自らの内にある罪の性質に気が付く。神に不足があるかのように反発し、心を頑なにして聞き従うことを拒んでいる。神の御心を踏みにじり、自らの欲望や都合を押し通している。表向きはクリスチャンらしく取り繕っても、その内側は神に背く汚れに満ちている(2テモ3:1-5)。この肉があるままでは、神に裁かれ、滅びる(エゼ34:17-22, マタ25:31-46)。私たちがなすべきことは、自らの汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出ていくことだ。私たちがそうするなら、神は真実をもって私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。
キリストに内に生きていただく者は、主の臨在の中を歩んでいく(詩16:8)。主の御心に従い、主と全く心を一つにして歩んでいく(2歴16:9)。主が共にいてくださるという信仰に立ち、どんな災いも恐れることなく歩む(4節)。戦いを挑んでくるサタンに対しても、豊かな勝利が与えられて進む(5節)。内に幕屋を張って住んでくださるキリストと共に、主の家に住まわせていただく生涯を送る(6節, 黙7:14b-17, 21:3,4)。
キリストが与えてくださる救いに与り、さらに内にキリストに生きていただく者が、キリストを私の羊飼いと告白し、キリストに養っていただき、何も乏しいことはないと証しすることができる(1節)。主のほうも私たちを「わたしの羊、わたしの牧場の羊」と呼んでくださり、私たちを通して豊かな栄光を現してくださる(エゼ34:23-31)。
私たちの信仰はどうか。「主は私の羊飼い」と、心から信仰を告白できるか。自らの姿を省みたい。





