十字架を仰ぎ見て生きる者
民数記21:1-9
イスラエルの民はモーセに率いられて、奴隷の地エジプトを脱出し、約束の地カナンを目指して荒野を旅していた。その旅は苦難の連続だった。彼らの行く手を様々な民族が立ちはだかり、イスラエルの民に戦いを挑んできた。それだけでなく、彼ら自身の中に不信仰が渦巻き、度々指導者モーセたちを非難し、神に恨み言をぶつけた。そんな彼らを神は決して見捨てず、真実を尽くして導き続けた。今日の箇所は、その中の一場面だが、最も有名な出来事だと言える。
直前の20章には、ミリアムの死(20:1)、飲み水の問題から噴き出した民の不平と(20:2-5)、その結果生じるモーセの失敗(20:10-13)、兄弟民族エドム人からの拒絶(20:14-21)、そして、アロンの死(20:22-29)と、好ましくない記事が連なっている。おそらく、モーセを始め、イスラエルの民の心は落ち込んでいたことだろう。そのようなときにこそ、信仰が試される。カナン人アラドの王による攻撃による惨敗だ(1節)。モーセと民は主の前で誓願を立て、聖絶を誓った(2節)。彼らが信仰に立った姿だった。神はその信仰に応え、見事な勝利を与えられ、彼らは、誓った通りに町々を聖絶した(3節)。
だが、彼らが聖絶しなければならなかったのは、実は彼ら自身の中にあった。民は、またしても食べ物と水のことで不平を言い始め、神から備えられた食べ物マナにまで文句を並べた(4,5節)。ついに神は燃える蛇を彼らの中に送られ、厳しい罰を下された(6節)。ようやく民はようやく自分たちの罪を悔い改めた(7節)。モーセが祈ると、神は、蛇を作り、旗ざおの上に掲げるという不思議な方法を示された(8節)。彼がその通りにし、青銅で蛇を作って高く掲げると、それを仰ぎ見た者は生きることができた(9節)。
この高く掲げられた蛇とは、キリストの十字架のことだ。キリストご自身が、この記事からご自分の十字架を予告しておられる(ヨハ3:14,15)。私たちは、罪のために神からの裁きを受けて滅びなくてはならない者だった(ロマ6:23a)。神は、そのような私たちが滅びるのを惜しんでくださり、ひとり子キリストを遣わしてくださった。キリストは、罪人の一人として数えられ(イザ53:12, ルカ22:37)、呪われた蛇のように十字架に高く掲げられてくださった(申21:23, ガラ3:13)。キリストが十字架の上で血を流して死んでくださり、死を破ってよみがえられたことによって、私たちの救いは完成した。死にかかっていたイスラエルの民が、高く掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見て生きたように、どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、十字架のキリストを仰ぎ見て、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただき、永遠のいのちの約束が与えられる(ヨハ3:16)。
こうして救われた者はやがて必ず、自らの内側に罪の性質があることに気が付く。外側をどれだけ整え、取り繕って生きようとしても、内側の肉がすぐに噴き出してしまう。内側にある肉の欲求と神への敵対心を我慢できなかったイスラエルの民のようだ。この聖絶されるべき肉が私たちの内側にある限り、私たちは滅ぼされてしまう。私たちがなすべきことは、自分の肉の姿を認め、砕かれて神の前に出ていくことだ。私たちがそのようにするなら、神は私たちを真実をもって導き、十字架を示してくださる。私たちが、示された十字架を仰ぎ見て、自らの肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内に生きてくださるキリストを通して、生き生きと生きていくことができる。
サタンは私たちの目を奪い、キリストから目を離させようとしてくる(マタ14:28-31)。だから、私たちはキリストから目を離さず(ヘブ12:2)、十字架を仰ぎ見続けていきたい。





