無くてならぬもの
ルカ10:38-42
本日の箇所は、マリアとマルタの姉妹が、対照的な姿を現す場面だ。二人とも、心からキリストを愛し、キリストに心からの奉仕をささげていた。ただ、決定的な違いがあった。マリアは、良いほう、つまり、「無くてならぬもの」(42節口語)をわきまえていた。それは、主が何を喜んでくださるのか、主の御心が何かを見分ける姿だった。一方のマルタは、主から諭されるまで、それがわからなかった。忙しく立ち振る舞っていたのが悪いのではない。精一杯もてなしたいという彼女の愛を、キリストは十分に知っておられた。ただ彼女は、忙しさのあまり、心が主から離れ、いろいろな思い煩いによって乱されていたのだ(41節)。何が「無くてならぬもの」なのかを見分けることができなかったのだ。彼女には、この一点を取り扱っていただき、目を開いていただく必要があった。私たちにも、この取り扱いの光は必要だ。
私たちの心も、主から離れているなら、思い煩いによって乱されている状態だ。無くてならぬものがわからず、さまよっている姿だ(イザ53:6a)。人が罪を犯した結果だ。その先にあるのは永遠の滅びだ(ロマ6:23a)。神は、そんな私たちが滅びるのを惜しんでくださり、ひとり子キリストを私たちのもとに遣わしてくださった。キリストは、私たちの罪を代わりに負い、十字架にかかって死なれ、死を破ってよみがえってくださった(イザ53:6b)。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。このキリストの救いを、「無くてならぬもの」として受け取り、新しい生き方を歩み始める。かつての神から離れてさまよっていた生き方から、牧者であるキリストのもとで、キリストから平安を与えていただき生きていく新しい生き方だ(1ペテ2:25, ヨハ14:27)。
こうしてキリストの救いをいただいた者はやがて必ず、罪の性質が内にあることに気が付く。罪をなおも慕い、神に敵対し、己が腹を押し通そうとする肉だ。キリストが語られた譬え話の一つに、種まきの例えがある。茨の地に落ちた種は、芽を出すものの、茨にさえぎられて育つことができない。茨とは、この世の思い煩いや、富や快楽の誘惑のことだ(マタ13:22, ルカ8:14)。こうしたものによって、私たちは神から心を離して生きていこうとする。その先にあるのは、滅びだ。私たちがなすべきことは、自分の汚れた姿を認め、「私を探り、私の心を知ってください」と、砕かれて神の前に出ることだ(詩139:23)。神は、そのように出る私たちを、真実をもって取り扱い、十字架を示してくださる。示された十字架に、己をつけ始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちは、「無くてならぬもの」としてキリストを内にお迎えし、内に生きてくださるキリストを通して、神の御心が何か、何が神に喜んでいただけるのかを見分けて生きる。マリアのように、良いほうを選ぶことができる(42節)。
「無くてならぬもの」を、私たちは持っているか。私たちの心は、神から離れてはいないか。思い煩いによって、罪によって、肉によってさえぎられていないか。自らの心を主の前で点検したい。





