主があなたに何を求めておられるのか
ミカ6:1-16
ミカ書は、預言者ミカが、終焉期を迎えている南ユダ王国の人々に対して、自分たちの罪を悔い改め、真の神に立ち返るようにと語り伝えた神の言葉を記した書巻だ。
本日開かれている6章の中心、そして、ミカ書全体の中心とも言うべき箇所は、8節だ。主が私たちに求めておられることは、公正を行うこと、誠実を愛すること、そして、へりくだって神とともに歩むことだ。
神が先にこれらのものを与え尽くしてくださった。イスラエルの民の歴史がそれを物語っている。まず奴隷の地エジプトから贖い出された。指導者モーセを立て、アロンとミリアムも送り、荒野の地を導きのぼられた(4節)。荒野において数々の試練を乗り越えさせられた。モアブの王バラクが、べオルの子バラムを雇って呪わせようとしたときも、呪いを祝福へと変え、彼らの企みを打ち砕かれた(5節, 民22-24)。シティムに宿営していたときには、彼らの策略によって(黙2:14)、偶像礼拝と淫らな罪に陥り、神の厳しい裁きが下ったが、やがて世代交代を経て、シティムからヨルダン川を渡り、ギルガルにおいて罪の赦しが宣言された(5節, ヨシュ5:9)。このように神は、イスラエルの民を公正と誠実と臨在をもって導かれた。それは、神の正しさを彼らが知るためだった(5節)。
神は私たちにも、ひとり子キリストの救いを通して、ご自分の正しさを示してくださる。イスラエルの民のように、私たちもかつては罪の奴隷だった(ロマ6:17,18)。サタンの企みによって罪の中に溺れ、神の裁きを受けて滅びなくてはならない存在だった(ロマ6:23)。しかし、私たちを罪に閉じ込めるサタンを打ち破り、私たちを罪と滅びから救うために、キリストは十字架にかかって死なれ、死を破ってよみがえられた(1ヨハ3:8)。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(ヨハ3:16)。ギルガルにおいてイスラエルの民に罪の赦しが宣言されたように、キリストの救いのもとで、私たちの罪の赦しは宣言される。私たちが神の正しさを知り、神の正しさに生きる生き方を始めるために、公正と誠実と臨在をもって私たちを救いへと導いてくださる。
こうして救われた者はやがて必ず、自らの内に罪の性質がまだあることに気が付く。ミカが示す南ユダ王国の人々の実態が重なる。彼らは、「不正の財宝」を蓄え(10節, アモ3:10)、「升目不足の升」や(10節, アモ8:5)、「不正な秤と、欺きの重り石の袋」を平然と使って(11節, ホセ12:7,8)、神を侮っていた。自分たちは富んでいるとたかぶり、偽りと欺きに満ちていた(12節, 黙3:17)。私たちも、神を侮り、神の前で偽りと欺きをもって生きようとし、神よりも己を優先させる肉があるではないかと鋭く光を当てていただきたい。「聞け、杖のことを」とある(9節)。これは悪の杖のことと読み解くことができる(エゼ7:10,11)。私たちも、内に抱え持ち自らを支えている悪の杖、肉の杖を温存したままでは、滅びは免れない。
私たちがなすべきなのは、自らの肉の姿を認め、砕かれて神の前に出て行くことだ。そうするならば、神は私たちに十字架を示してくださる。私たちが示された十字架に自らをつけて始末するならば、キリストが私の内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。内に生きてくださるキリストが、今度は私の杖となってくださる(ミカ7:14)。私たちは、内なるキリストを通して、公正を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩む者となる。この生き方こそ、主が私たちに求めておられることだ(イザ57:15, 2コリ6:14-18)。
主が私たちに求めておられることを、私たちは悟っているか。主が求めておられる生き方を、私たち自身は求めているか。蔑ろにしてはいないか。主の前に出て、探っていただきたい。





