礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.10.26

義人は信仰によって生きる

ローマ1:1-17

 来る10月31日は、宗教改革記念日だ。1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95ヶ条の論題」を打ちつけた。このことがきっかけとなって、ドイツ各地に宗教改革の運動が起こっていった。


 ルターが掲げた思想の柱の一つとなり、今日のプロテスタント教会が教義の柱としているのが、信仰義認、つまり、人は信仰によってのみ義とされる、ということだった。彼がこの強調点の根拠としたのが、今日開かれているローマ人への手紙1章17節だった。


 この17節を境にして、1章は大きく二分される。後半に書かれているのは、神を信じようとせず、信仰による義を拒む人たちの姿と、彼らの上に下る神の裁きが述べられている。信仰の世界に開かれるか否かの違いは大きいことを物語っている。


 私たちもかつては、神を知らず、いや、知ろうともしない者だった(28節)。罪のゆえに神から遠く離れ、滅びゆく者だった。そんな私たちを、神は憐んでくださり、ひとり子キリストを私たちのもとに遣わしてくださった。私たちを救い、信仰の世界へと入れてくださるためだった。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちのために備えられた救いの道は完成した。どんな人であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、その信仰によって罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(16節, ロマ10:9,10, エペ2:8)。キリストの救いによって、私たちは信仰の世界が開かれ、神を信じる者としての新しい歩みを踏み出して行くことができる。


 こうしてキリストの救いをいただき、信仰の世界を新しく歩み始めた者はやがて必ず、信仰によって生きているとは言えない自らの実態に気が付く。それどころか、世にあるもの、汚れに満ちた心、罪を慕う肉、さらには、神を押しのけてふんぞりかえる己によって生きている本性だ。神を知っている、信じているように見せかけていても、むなしい思いと鈍く暗い心をさらけ出し(21節)、神の御心を悲しませる生き方だ。このような肉を残したままでは、私たちはやはり滅ぼされてしまう。


 私たちがなすべきなのは、自らの汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出ることだ。そうすれば、神は私たちを取り扱い、十字架を示してくださる。私たちが示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが私の内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内側に生きて働かれるキリストが表してくださる信仰によって、信仰によって生きる者となることができる(ガラ2:20b)。義なるキリストを私の内にいただき、私たちも義なる者として歩むことができる(ピリ3:8,9, 2ペテ1:1)。


 キリストとともに信仰によって生きる者は、その信仰を証し、他の人の信仰を励ましていく(8, 12節)。自らの生き方をもって、信仰によって生きることがどれほど力強く、喜びに満ち、祝福に溢れているかを証ししていく(1ヨハ5:10a)。


 「義人は信仰によって生きる」(17節)。私たちはこの聖句を自らの姿としたい。信仰によって生きる者となりたい。