キリストから与えられる平安
ヨハネ14:27
こんにちは。ご機嫌いかがでしょうか。
私たちの教会に集っておられたあるご高齢の方が、こうおっしゃっていました。”私はこれまで、安寧(あんねい)を保つことを目標にして生きてきました”。安寧とは、辞書をひきますと、平穏で無事なことを表す言葉だそうです。この方は、教会に通うようになって、やがてキリストの救いをいただいてクリスチャンとなり、平安の内に人生を閉じられました。まさに人生の最後に、本当の安寧を見つけ、掲げて生きてこられた目標を達成されたのだと思います。
この方のように、人は多かれ少なかれ、安心を求めて生きているのではないかと思います。私たちを安心させるものは、いろいろとあるでしょう。健康を保つこと、家庭が円満で、家族が満足していること、没頭できる趣味を持っていること、などなど。ある人は、仲間と過ごしている時間が安心でしょうし、ある人は、一人でゆっくりと過ごしている時間が安心でしょう。預金口座にこれこれの金額が入っていることが一番安心だという人がいると聞いたことがあります。大好きな海外旅行に出かけ、憧れのレストランやホテルで優雅に過ごすと安心するという人の話も聞いたことがあります。どれも、かけがえのない”安心”だと思います。
けれども、そのような”安心”は、残念ながら、永続するものではありません。時間、場所、コストなど、いろいろと限界があります。さらには、肝心の安心を感じていたはずの本人が変わっていきます。歳をとり、環境や時代が変わると、人の感覚が変わるのです。もうそれでは安心できなくなってしまったりするのです。
決して変わらない安心がある。聖書はこう私たちに語っています。キリストが言われたこのような言葉が聖書に記されています、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」。キリストが与える平安があると言われています。そして、その平安は、世が与えるのと同じではない、と言われています。世で得られる安心につきものの限界がありません。また、時代が変わり、環境が変わって、人が変わっても、決して変わりません。キリストは、この変わらない平安を与えてくださるお方なのです。
そもそも、なぜ私たちは安心を求めるのでしょうか。それは、私たちが神様から離れているからです。罪のために、私たちは神様から遠くかけ離れ、そのままでは滅びてしまう存在です。そんな私たちがもう一度神様とつながり、平安を持って生きることができるようにと、神様はひとり子キリストを私たちのもとに遣わしてくださいました。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、この救いの道が完成しました。どんな人でも、自分の罪を悔い改め、キリストを私の救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられます。この救いに与った人は、キリストが与えてくださる平安をいただき、最後まで平安に満たされて生きることができます。
このキリストから与えられる平安を、あなたもいただきませんか。そして、変わらないキリストの平安を持って生きていきませんか。
教会ではあなたのお越しを心からお待ちしています。お気軽にお越しください。