私たちが脱ぎ捨てるべきもの
マルコ10:46-52
エリコの町で盲目の人がイエスに目を癒していただく記事は、マタイにもルカにも収められているが、今日は、ルカ独特の描写の一つに目を留めたい。彼が上着を脱ぎ捨ててイエスのもとに行ったことだ。生まれつき盲目で、道端で物乞いをしていた彼にとって、おそらく唯一の財産であったであろう上着を失うことは、致命的な損失になるはずだった。しかし、ここで彼はそれを一切顧みず、脱ぎ捨てた。単なる喜びの表現程度のことではない。必死にしがみついていた古いものに勝る、キリストの恵みに飛び込んだのだ。古いものを脱ぎ捨てるかどうかが、新しい恵みに生きる者となるかどうかにつながる。
彼の姿と対照的に、マルコ10章には、脱ぎ捨てるべきものを脱ぎ捨てていない人々の姿が描かれている。まず、2-12節にはパリサイ人たちが登場する。彼らは、イエスを「試みるために」(2節)質問をしに来た。イエスに対する憎しみと妬みが、彼らの動機だった。
そのすぐ後の13-16節に、子どもたちをイエスのもとに連れてきた親たちを、弟子たちが叱りつける場面がある。自分たちの先生の多忙をおもんばかる心からではなく、傲慢から出たものだった。
続く17-22節は、一人の青年がイエスのもとにやってきた記事だ。彼は、永遠のいのちを求めていた。ところが、イエスの言葉を聞くと、財産を惜しみ、「悲しみながら立ち去った」(22節)。
35-45節は再び弟子たちの描写だが、今度は、彼らの野心と自己中心が露わになっている。先に語られた「先にいる多くの者が後になり…」(31節)というイエスの言葉の意味も、直前で予告されたイエスの受難と復活の意味も悟ろうとしない、彼らの頑なさでもある。
これらの人々はどれも、罪と汚れを抱え持っている姿だ。私たちも、彼らのように、罪と汚れを抱え持っている限り、キリストの恵みに生きることはできない。
私たちはかつて、神から遠く離れて罪の中に生き、滅びに向かって突き進んでいた。自分が生来抱え持っているものが罪であること自体、わからずに生きていた。しかし、神はひとり子キリストを通して、私たちに罪をわからせ、罪から解放される道があることを示してくださった。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、この救いの道は完成した。どんな罪を抱え持っている者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。罪を脱ぎ捨てて、キリストによって歩み、キリストにあって満たされる新しい生き方を始めることができる(コロ2:6-10)。
こうしてキリストの救いをいただき、新しい生き方を始めた者はやがて必ず、自分の内に罪の性質があることに気がつく。脱ぎ捨てたはずの罪をまだ慕っている、いやむしろ、脱ぎ捨てるべきものを内にしっかり抱え持っている、そのような肉の実態だ。この肉を抱え持ったままでは、私たちの行き着く先はやはり滅びでしかない。私たちがなすべきことは、脱ぎ捨てることだ。私たちが自分の汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、神は十字架を示してくださる。示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、キリストという新しい人を着せていただいた者なり、キリストによって、神の御心に歩んでいくことができる(ロマ13:12-14, エペ4:22-24, コロ3:9b,10)。罪と汚れに勝利をとった者として、また、キリストの白い衣を着た者として、キリストと共に勝利の歩みを送る(黙3:4,5, 19:14)。
私たちは、脱ぎ捨てるべきものを脱ぎ捨てているだろうか。罪を脱ぎ捨てて、キリストの救いをいただいているか。肉を脱ぎ捨てて、内にキリストに生きていただいているか。自らの姿を省み、主の前に出ていきたい。