ノアは神とともに歩んだ
創世記6:5-22
ノアが箱舟を作って洪水を逃れたというストーリーは、一般的にもよく知られている。しかし、ノアが何をしたかよりも、ノアがどのような人物だったか、どのような生き方をしていたかに目を向けると、大切な神からメッセージを受け取ることができる。
ノアが生きた時代の腐敗ぶりは、極みに達していた(5,11,12節)。人は、自分が生きたいように生き、好き勝手に振る舞って満足するが、その全てが神の目の前にさらけだされていることに気がつかない。私たちの生きる今の時代にも、同じような人の罪の姿を見る。この時代もまた、人の悪が極みに達し、刻一刻と終わりが近づいている(1ペテ4:7, 2テモ3:1-5a)。罪に生きる者たちが滅ぼされる終わりだ。
このような時代にあって、ノアは「主の心にかなっていた」(8節、直訳「主の目に恵みを見出した」)。彼は、人生のどこかで主と出会い、主の目の前で主の恵みに生きる生き方を見出した。私たちも、人生のどこかでキリストと出会う必要がある。罪の中を生きて滅びを待つ私たちが、罪の赦しと滅びからの救いをいただき、神の恵みを見出すために、キリストは神から遣わされた。キリストが十字架にかかって死に、死からよみがえられたことによって、神の救いの道は完成した。自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる(ヨハ3:16)。キリストの救いを見出した者として、神の恵みで生きる生き方が始まる。この救いの道は、誰にでも開かれている。だが、それを見出す人は少ない。滅びに至る道が大きく、そこに向かう人たちが多いからだ(マタ7:13,14)。
9節に、「正しい人」、「全き人」、「神とともに歩んだ」と、ノアがどのような人物だったかが記されている。正しさとは、神の戒めや諭しに忠実に従うこと、全きとは、汚れから決別して聖い生き方を徹底すること、そして、神とともに歩むとは、神の御心を知ってそれを行うことだ。これらは、キリストを内にいただいた者の姿だ。キリストの救いをいただき、新しい生き方を歩み始めた者はやがて必ず、自らの内にまだ罪の性質があることに気が付く。罪を慕い、神を侮り、人を欺く醜い肉の姿だ(2テモ3:1-5a)。この肉を抱えている限り、私たちはやはり滅ぼされてしまう。私たちが自分の肉を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に己をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内におられるキリストを通して、正しい人、全き人、神とともに歩む者として生きることができる。
神から箱舟を作るように命じられたノアは、「すべて神が命じられたとおりにし」た(22節)。このノアの徹底した従順があったからこそ、箱舟は完成した。私たちも、キリストに内に生きていただいたならば、神に徹底して従い、神が託してくださる“箱舟”を完成させることができる。福音を伝えることだ。キリストを信じる信仰によって人が義とされるという福音を、私たちも神から託され、人々に伝えるようにと受け継いでいる(2ベテ2:5, ヘブ11:7)。
エノクもまた、神とともに歩んだ人物だ。彼は、神が取られたのでいなくなった(5:24)。これは、キリストが再び地上に来られ、最後まで信仰を貫いた者たちを引き上げる携挙を表している。私たちは、この再臨のキリストによって携え上げられる日を待ち望んでいる。そのときになると、ちょうど箱舟の戸が神によって閉じられたように(7:16)、間に合わなかった者は残される。私たちは、その日に間に合わなかったということのないようにしたい。
「ノアは神とともに歩んだ」(9節)は、ノアの生き方の証しだ。私たちも、神とともに歩む者になりたい。