キリスト教と私

教会員によるキリスト教との出会いの体験談

教会に来られている方々が、どのようにしてキリストに出会い、
どのようにして新しい人生を送るようになったのか、体験談をご紹介します。

2022.04.02

「絶対的な存在を求めて」漆原 直子

聞き手:今回は遠く東京に在住の教会員、漆原直子さんにご登場いただきます。漆原さんはいわゆる転勤族で、ご主人の転勤によって日本各地での生活をしてこられたのですね。
漆原姉:はい。宝塚、東京、秋田など何度も引っ越して、今は東京都小金井市に住んでいます。
聞き手:宝塚に来られた時に、初めて教会に導かれたのですね。まだ千恵ちゃんが赤ちゃんだったですね。
漆原姉:そうなんです。神様が一番良い時に、ベビーカーを押して10分の所にある教会へと導いてくださいました。あの宝塚滞在が、私の人生が変えられる期間となったことは、本当に神様の深いご計画だったと思います。

聞き手:東京でも教会に通っておられるのですよね。
漆原姉:はい、電車を使わなければならないのですが、良い教会に導かれて、いろいろと奉仕をさせていただいています
聞き手:今祈っておられることは何でしょうか。
漆原姉:第一は主人が救われること、第二は宝塚に帰ることができるようになること、第三は娘の信仰が回復して教会生活を送ることができるようになることです。
聞き手:そのことのために祈りましょう。では、お証しをお願いします。

絶対的な存在を求めて

私は、関東出身者ですが、結婚、退職、出産、引っ越し、など環境が一気に一変したことが、私が宝塚栄光教会へ導かれるきっかけとなりました。

もうそのころの私は、今までのやり方では自分自身がうまくいかず、内心疲れ切っていました。それどころか、聖書を通しての本物の愛情など知りませんでしたから、子どもに伝えてあげられるものなど何もない空っぽの状態でした。今までの様な気力や向上心、また人の励ましや慰め、また勉強会や講習会で得られるいわゆるHOW TO的な情報、また◯◯主義的な価値観を自分の中に取り入れても、根本的な解決ができず、堂々巡りの生き方しかできないことを何となく感じていたのだと思います。

いつでもどこでも変わることがない、ライフステージや自身の体調が変化しても検索しリセットする必要のない『絶対』といえるものってなんだろう?

物や人間から与えられる以上の『絶対的な存在』だからこそ、安心して信頼することができる存在が欲しいと心の中で探していたのだと思います。

宝塚へ来てから三か月ほどした頃だったと思います。家のポストに、宝塚栄光教会の案内のチラシが投かんされていました。『絶対的な存在を求める場所=教会』なんて思ってもいませんでしたから、一度はそのチラシを何気なく捨ててしまいました。しかし、やっぱりあの教会のチラシが気になるからと、ごみ箱からチラシを拾い直し、家の窓から教会の方向を眺めては、また何度か教会の前を行き来し礼拝へ出てみたいけれどあまり宗教とは関わらないほうがいいのではという思いと葛藤していました。

ほどなく、思い切って礼拝へ出席してみました。初めのころは、日曜日の午前中礼拝へでかけることで、家に残した家族の者からどのように思われてしまうのか心配しつつも、「あそこ(=教会)へ行きたい!」と教会へ通い続けました。

牧師夫人と二人でお話しした時、魂の救いについて説明してくださいました。私は、安堵の涙がドット(鼻水も)出て、わんわん泣いていました。

聖書が語っている神様の愛は、人間の中にある自我という自己中心の神様に背いた罪の束縛から解放し救うために、イエスキリストを地上に送って下さり十字架の贖いの死が成し遂げられたこと。そして、その十字架の贖いの死は私のためのものであること。これからは、自我に振り回される生き方ではなく、新しく創り変えられたものとしての生き方が約束されていることを話してくださいました。

そして、神様の前に今までの罪を告白し、イエスキリストの十字架の贖いの死は私の罪の身代わりためと信じ、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。

聖書の御言葉は、癒し、慰め、励まし、強め、助け、時に鋭く自我に光を当て、真理を教えて下さいます。「神様、今日も真っすぐにあなたが教えんとして下さることを聞かせて下さい」と願いつつ聖書の御言葉の前に向かう時、聖書に書かれている内容は、これからどのように、そして何に向かって人生の希望を抱いて生きていったらいいのか、教えて下さる支えとなっています。

いまは、20年前の様に母教会である宝塚栄光教会へ自転車で通えるところには住んでいません。しかし、今回このようなきっかけからクリスチャンの20年を振り返るなかで、分からずに下を向いていたような時にも、雪国での生活に心折れそうな時にも、今までずっと神様が励まし続けていてくださり支えて下さっていたことを覚え、感謝な思いでいっぱいです。