キリスト教と私

教会員によるキリスト教との出会いの体験談

教会に来られている方々が、どのようにしてキリストに出会い、
どのようにして新しい人生を送るようになったのか、体験談をご紹介します。

2019.08.25

「聖書の話は自分の姿」橋本五郎

聞き手:今回は久しぶりに壮年の橋本五郎さんに登場していただきます。橋本さんは、どんなお仕事をしておられますか?
橋本兄:大阪中央卸市場で鮮魚を卸す会社を経営しています。
聞き手:それはとても素晴らしいお仕事ですね。そこの新鮮なお魚が、教会で行っているデイサービスの昼食のテーブルに並ぶことも多いのですよね。
橋本兄:はい、使っていただいて、感謝しています。
聞き手:お仕事をしているうえで、最近困ったことはありましたか?
橋本兄:今年6月に大阪で開催されたG20サミットの期間中、大規模な交通規制が布かれた時は、物流がストップして、鮮魚を運送することができず、休業やむなきに至り、悲鳴を上げました。神様を信じる信仰がなかったら、参っていたでしょうね。
聞き手:そうですね。どんな試練の中でも、信仰があれば乗り越えられますね。ではお証しをお願いします。

神様が与えてくださった道

 今からおよそ30年前に、私は宝塚栄光教会に導かれました。“明日洗礼を受けることになったので、立ち会ってほしい”という姉からの電話がきっかけでした。

 当時、私たち兄弟は、1年前に両親を続けて亡くし、失意の中にありました。“そしたら、また明日”と言って別れた次の日に、父親は倒れていて、帰らぬ人となっていましたし、寝たきりになっていた母親も、調子が悪くなり、搬送先の病院で、ホッとする間もなく亡くなりました。姉は、毎日のように母親の世話に訪れていただけに、このあっけない幕切れに、考えることがあったのでしょう。その答えが洗礼なのかなという思いもあって、立ち会いに行きました。

 初めて訪れた教会は、普通の一軒家で、教会とはわからないで通り過ぎてしまうようなたたずまいでした。洗礼式のことはあまり覚えていませんが、教会員のみなさんが温かく迎えてくださったのが印象的でした。

 それから私自身も、その居心地の良さにひかれて、宝塚栄光教会の日曜日の礼拝に参加するようになりました。聖書のお話は、歴史ドラマを見ているような、血わき肉おどるものでした。少年ダビデが巨人ゴリアテをやっつけるシーン、イスラエルの民が出エジプトを決行するシーンなど、まるで映画とダブって、想像力をかきたてるものでした。当時、犬養道子さんの「新約聖書物語」「旧約聖書物語」という本を買い求め、聖書の副読本よろしく、家で読みふっていたのを思い出します。

 いつものように礼拝に出ている時でした。今まで、まるで物語を読んでいるように聞いていた聖書の話が、“これって自分のことではないの”と気づかされました。そう思って聖書を読み返してみると、まさにそうでした。出エジプトを果たしたイスラエルの民が、やれ水が苦いだの、やれ食べ物に飽きただのと不平不満を言い出す。カナンの地を目の前にして、偵察から帰ってきた隊員が、“すばらしい地でした。でも巨人が住んでいて、私たちの手に負えません”と報告するシーン。捕えられたイエス様を“私はあの人を知りません”と恐怖にかられて答えたペテロ…。全て自分の姿でした。そうでした。今まで人ごとのように読んでいた、また物語として読んでいた聖書の話は、すべて自分の話でした。

 強欲な自我、あくまでも知らないと言い張る自我、神様を知らないまま平気で過ごしてきた自分の罪。こんな自分のために、イエス様は十字架にかかってくださり、尊い血潮を流してくださった。そして、私の罪は赦されたと確信しました。そして私自身、1991年のクリスマスに洗礼を受けました。

 あれから30年近く経過しました。その間に阪神大震災もあり、小さかった子どもも成人になり、いろいろなことが、あっという間に過ぎ去ってしまいました。毎週教会で会う小さな子どもたちも成人となり、結婚し、新しい命を抱いて教会に連れてくる。そして年老いた者は、地上の別れは悲しいもの、天国で主にまみゆる喜びと共に旅立っていく。そして、私自身もそのような年になりつつあります。

 今、神様のことを伝えていかなければ、微力ながらも伝えていかなければと思います。妻に、子どもたちに、職場の人に、この神様の恵み、つらい時の助け、新しいことに立ち向かう勇気、We have Jesus. 主が共にいて、いつも助けてくださることを伝えていかなければ、と。