キリスト教と私

教会員によるキリスト教との出会いの体験談

教会に来られている方々が、どのようにしてキリストに出会い、
どのようにして新しい人生を送るようになったのか、体験談をご紹介します。

2016.05.22

「いつも真実なイエス様に感謝」高知典子

聞き手:今回登場していただくのは、今から14年前に宝塚栄光教会で洗礼を受けられた高知典子さんです。高知さん、もう14年も経つのですね。
高知姉:そうですね。時の経つのはなんと早いんでしょう。まだ4才だった息子の手を引いて教会に来ていました。
聞き手:そうでしたね。大ちゃん、可愛らしかったですね。今はもうすっかりいい青年になっていますが。お勤めをしながらの女手一人での育児は、なかなか大変だったでしょう。
高知姉:そりゃあ、もう、いくつも戦いがありました。涙も流しました。でも、クリスチャンになってからは、いつもイエス様がそばにいてくださって、助けてくださいました。
聞き手:聖書のヘブル人への手紙4章16節に、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とありますが、おりにかなった助けをいただかれたのですか。
高知姉:はい、その通りです。イエス様は私に、その時、その時にぴったりの助けを与えてくださいました。これからも、何が起こって来るかわかりませんが、このイエス様に信頼して、歩んでいきたいと思います。
聞き手:では、お証しをお願いします。

私が、初めて宝塚栄光教会を訪れたのは、今から14年前、2002年の8月第二週の日曜礼拝でした。

当時、私は家庭の中に問題を抱えており、自分の努力ではどうすることも出来ず、悩んでいました。そして、そのような家庭の問題が起きたのは、過去に私が犯した大きな罪が原因ではないかと考えたり、私自身が、自分勝手で性格が悪いために、こうやってうまくいかなくなるのだと考えたりしていました。問題を何とか解決したいと思う一方、自分自身が変わらなければ・・という思いを抱き、私は、教会の門を叩きました。

礼拝へ出席してみたものの、それだけでは何も変わりませんでした。私は、自分の悩みを誰かに聞いてほしくて、教会へ電話をかけ、牧師夫人に会っていただく約束をしました。その日は、8月中旬の木曜日、世間はお盆で夏休みのまっ最中でしたが、牧師夫人は、温かく迎えてくださいました。

牧師夫人と話をするうちに、人は誰でも「罪人」であること、イエス・キリストの十字架を信じて悔い改めるなら誰でも聖くなれることを教えていただきました。私は、カトリックの大学を卒業していましたが、大学の宗教学では、罪の悔い改めのことは教わりませんでした。でも、こんなに悪い人間である私でも、悔い改めれば聖くしていただけるのであれば、そうしたいと強く思いました。また、教会へ行くまでに、大学でもらった聖書を読んだり、お祈りをしたりしていましたが、それは、空を切るような手応えのない祈りでした。イエス様に届くお祈りをしたい(そして願いを叶えていただきたい)・・そのためにも、悔い改めをしたいと思いました。

その日、私は牧師夫人に導かれて、神様の前に、自分の罪を、思いつく限り言い表して、悔い改めをしました。最後に牧師夫人から「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ」と聖書の言葉をいただきました。

こうして、私は救われました。

その後、洗礼を受け、クリスチャンとなりました。しかし、実は、私は「救い」がまだよくわかっていなかったのです。悔い改めをしても、それほどの喜びはありませんでした。私の心も大きくは変わらず、それどころか心の中にはやっぱり怒りや醜いものが湧いてきます。家庭の問題も相変わらず続いていました。

そんなある日、牧師夫人と二人でお話をさせていただいている時、私は、自分が大きな勘違いをしていたことに気づきました。「悔い改めれば聖くなる」私は、まるで自動的に汚い心が無くなるかのように考えていましたが、そうではありませんでした。私という人間はやっぱり、怒りもあるし、醜いものを持っている・・でも、こんな私の罪をイエス様は赦してくださり、「罪のない者として扱ってくださる」のだということが、突然わかりました。そして、悔い改めたときにはよくわからなかった「イエス様は私の罪を赦すために十字架で血を流してくださった」ということが、初めて聞いたようにはっきりとわかりました。そのとき、話をしている牧師夫人の頭上に十字架に付かれたイエス様が見えた気がしました。

それからは、私のために、十字架についてくださったイエス様のために、罪を犯さずに生きていきたいと心から願うようになりました。

あれから、14年が経ちました。結局、あの時、私が叶えていただきたいと思った願いは、叶えられませんでした。祈りは聞かれなかったのでしょうか?そうは思いません。振り返ると、イエス様は、いつも、いつも近くにいて、私にとっての最善を与えてくださいました。家庭の問題や、仕事での大きな失敗・・・辛い壁に立ち向かわなければならない時、イエス様がいてくださったので、乗り越えることが出来ました。試練はやって来ます。でも、イエス様は、いつも超えやすいように、備えを用意し、手を取って一緒に超えてくださるお方です。

もちろん、願い通りにならなかったことばかりではありませんでした。考えられないような不思議な出来事が起こって助けられたり、母の病が癒されていたり・・・そんなことも沢山ありました。

願いどおりになったこと、ならなかったこと・・・振り返ってみると、結局どれをとっても、神様への感謝しかありません。ただただ、思うのは、イエス様はいつも真実なお方であるということです。

そして、この真実なイエス様を信じ、私も、イエス様に真実を尽くしていきたいと願っています。