キリスト教と私

教会員によるキリスト教との出会いの体験談

教会に来られている方々が、どのようにしてキリストに出会い、
どのようにして新しい人生を送るようになったのか、体験談をご紹介します。

2013.05.07

「不思議な神様の手に導かれて」安原茂樹

聞き手:今回は、3月に洗礼を受けられた安原茂樹さんに登場していただきます。安原さん、洗礼を受けられてから2ヶ月ほどになりますが、どんな心境ですか。
安原兄:以前はちょっとした事に不安になったものですが、今は心がとても穏やかです。
聞き手:それは神様が与えてくださった平安でしょうね。教会に来られるようになったのは、確か昨年の9月からですから、短い求道生活でしたね。
安原兄:そういうことになりますね。まだわからないことばかりですが、少しずつ学んでいきたいと思います。
聞き手:教会の近くにお住みだったのに、教会のことはご存じなかったのですね。
安原兄:はい。まったく神様のお導きとしか言いようがありません。
聞き手:神様は不思議な事をしてくださいますね。ところで安原さんはオカリナを吹かれるとお聞きしていますが…。
安原兄:そうなんです。まだ修行中ですけど、時々仲間と一緒に発表会に出て演奏します。
聞き手:また賛美歌を練習して、教会でも演奏してください。
安原兄:はい、がんばります!
聞き手:では、お証しをお願いします。

※このインタビューは岩間の創作です。

私が教会に通うようになったのは、まったく偶然のきっかけによるものでした。もう10年以上も前のことになりますが、私はある事情でそれまで勤めていた職場を辞め、実家に戻り、そのまま働くことをやめてしまいました。当時の私は外の世界というものを恐れ、まるで臆病な小動物のように自分の狭い世界の殻に閉じこもっていました。そんな状態で、社会との接点もほとんどないまま無為な時間がずるずると過ぎていきました。

さすがに年月が経つほどにこのままではいけない、なんとか抜け出さなくてはならないという思いはつのっていきました。しかし複雑にもつれた糸に絡まってしまったように、私はもう動こうにもまるで身動きがとれなくなっていたのでした。相談する人もなく、たった一人取り残されたような気持でした。

そんな状況でずっと過ごすうちに、自分自身への嫌悪や周りへの一方的なうらみつらみや将来の不安などが積りに積もって、本当に自分がおかしくなってしまうのでないか、気が変になるのではないかと思い始めた頃のことです。私はインターネットのサイトで偶然、宝塚栄光教会のことを知りました。そこでは岩間先生が紹介されていました。私は宗教とは全く無縁の人間でしたし、家のすぐ近くにこのような教会があったことすら知りませんでした。しかし、牧師の方ならなにか解決策を与えてくれるのではないかと藁にもすがるような思いを抱いたのでした。

そしてある日、私は思い切って岩間先生に電話をかけてみました。私は言いました。「牧師さんに相談したいことがあります。私はキリスト教の信者でもないですし、宗教とは全く関係のない話ですが、それでも良いでしょうか」。見ず知らずの人間の突然の電話でしたが、岩間先生は快く応じて下さいました。

始めて訪れた教会の一室で私は岩間先生に自分が置かれている状況を話し、悩みを打ち明けました。私の話を聞かれたあと、岩間先生は言われました。「それはすぐに解決できるような問題ではないかもしれない。ですが、時間が掛かることになっても教会に通われてみてはどうですか。教会にはあなたのように悩みを抱えてこられる方もいらっしゃいます。そしてそういった方の多くが、通われているうちに良い方向へと向かっているのです。」

そして最後に先生は私のために祈ってくださいました。祈りと言うものを聞いたのはこの時が初めてでした。そのなかで、「安原さんを教会へと導いてくださった神様に感謝します」という意味の一節があったのを記憶しています。

正直言って、それまで神のことなどろくろく考えたこともなかった私でした。ですが、「神様のお導き」と岩間先生が言われた、その言葉に私の心のなにかが反応しました。私は教会に来ようと思いました。

次の日曜日の朝、私は緊張しながら教会へとやってきました。すると千恵子先生をはじめ、多くの方が笑顔で私を迎えて下さいました。そのことがとても嬉しかったのを良く覚えています。

それから私は毎週日曜日には教会に行くようになりました。いつも皆さんの笑顔が心にしみる思いでした。色々な行事の際にも声をかけて頂き、参加をして楽しい時間を持ちました。私の心のこんがらがった糸が少しずつほぐれていくような思いでした。

そして聖書も少しずつ読むようになりました。その中で私は一生の宝物となるような多くの印象的な言葉に出会いました。

「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
「悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるから。」
「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。(中略)私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

これらを読んだとき、私はイエス様が自分に語りかけて下さっているような気持ちがしたものでした。

同時にまた聖書を読み進めるうちに、私は自分がいかに傲慢で自己中心的な人間であったか、自分可愛さの身勝手な行いを繰り返してきたかということに、あらためて思い至りました。私が十年以上も無為な時を過ごさなくてはならなかったのも、やはり自分自身にその原因があったのです。そして岩間先生との学びの機会のなかで、私のような者でも、イエス様の十字架を信じることで、罪が赦されるのだということを知りました。「古い自分を十字架につけなければならない」私はそう思うようになりました。

そうして私は岩間先生に導かれて、罪の悔い改めをしました。イエス様が十字架で流された血は私のためだったとそのとき私は信じました。岩間先生から、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と祈って頂いて、私は自分が新しい自分になったことを感じました。

不思議なことですが、こうして古い自分を捨てた時と前後して、それまで逃げていた外の世界とまともに向き合っていこうという気持ちがはっきりと私の中に生まれてきたのでした。

そうして今日私は洗礼式の日を迎えることができました。

今こうして教会を訪れてから洗礼を受けるまでの日々を思い返すと、神様のお導きということを思わずにはいられません。

この教会に来るまでの私は、地図も磁石も無く暗い道を迷い歩くような者でした。そしてもう歩くこともできなくなり、いよいよ倒れそうになって助けを求めた私を、神様は光をもって導いて下さったのでした。

そして今また私は神様のお導きにより、新たな一歩を踏み出すことになりました。もとより、たとえ救われたとはいえ、私はまだまだ罪深い人間です。ややもすると、自己中心的な自我が頭をもたげます。そしてまた、これからもさまざまな困難にうち当たることでしょう。しかし今の私は、神様がその大きな愛でもってここまで私を導いてくださったのだということを知っています。たとえ道が暗い時でも今の私にはイエス様という光があります。

これからも、私は常にイエス様の十字架を見上げ、イエス様がともにおられる喜びに満ちて人生を歩んでいきます。