礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2026.09.13

みこころにかなった者たち

マルコ3:1-19

 本日開かれているのは、イエスが使徒を選ぶ場面だ。マタイとルカにも並行記事がある。後の使徒の働きにもつながる、福音書の中でも非常に重要な記事の一つだ。


 並行記事には共通点がある。①イエスが呼び集められたこと(マタ10:1a,ルカ6:13a,13節)。②「使徒」と呼ばれていること(マタ10:2a,ルカ6:13b,14節a)。③十二使徒の名前が記されており、④ユダがイエスを裏切ったと明記されていることだ(マタ10:4b,ルカ6:16b,19節)。


 ①私たちは主から呼び集められた。私たちを導き、キリストの救いに入れてくださったのは神だ(エペ1:4)。この神の摂理を忘れてはならない。②呼び集められ救われた私たちに、主は使命を託してくださる。それが使徒、すなわち全権大使だ。キリストの福音の実を結ぶために、派遣された者だ(ヨハ15:16)。では、私たちはそれにふさわしい者か。そうではない。③十二弟子は「無学な普通の人」だった(使4:13a)。神はあえてそのような者を選び、使徒としてくださるのだ(1コリ1:28口語)。けれども、私たちが汚れたままでよいのではない。④私たちの内側のユダが取り扱われなくてはならない。私たちの内側にある、神に逆らい、裏切る心に光を当てていただき、それを捨て去らなくては、私たちは使徒としての生き方を全うすることはできない。


 以上のことを踏まえて、マルコの記述に目を向ける。イエスが呼び集められたのは、「みこころにかなった者たち」だった(13節口語)。3章の始めに、イエスが安息日に片手の萎えた人を癒される場面がある(3:1-6)。彼を真ん中に立たせたのは、イエスを訴える口実を狙っていたパリサイ人たちが、イエスの投げかける問い(4節a)によって、自分たちの心に光が当てられるようにするためだった。安息日に良いことをすることは、神の御心にかなうことではないかという光だ(マタ12:10-12)。しかし、彼らはさらに心を頑なにした(4節b, 6節)。


 この章の終わりには、イエスに対する非難を聞いたイエスの家族が、イエスを訪れる場面がある(3:31-35)。ところが、イエスは「神のみこころを行う人」が家族だと言いわれる(35節)。神は人の心をご覧になり、その人の内に御心にかなった心があるかを見極める。そして、御心にかなった者を通して、栄光を表される(2歴16:7a)。


 キリストご自身がこのことを明示された(マタ3:17口語,ヨハ5:19, 8:29)。このキリストの御心にかなったお姿があったからこそ、十字架と復活が成し遂げられた。かつては罪のために神から離れ、神の御心も悟らず滅びゆく者だった私たちを救うためだった。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストの十字架が私のためだったと感謝し、キリストを自分の救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。そこから神の御心を求める新しい歩みが始まる。


 こうして救われた者はやがて必ず、自らの内に罪の性質があることに気が付く。罪を赦されたと言いながら、なおも罪を慕っている。神の御心を求めると言いながら、己が腹を求め、神の御心を足蹴にしている。神に逆らい、神を裏切る“ユダ性”だ。この肉を抱え持ったままでは、私たちはやはり滅ぼされてしまう。私たちがなすべきことは、神の御心にかなっていない自らの姿を認めて、砕かれて神の前に出ることだ。そうするなら、神は真実をもって私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24,2:19b,20a)。私たちは、内に生きて働かれるキリストを通して、神の御心にかなった者となる。使徒たちは、ペンテコステを経て初めて、神の御心にかなった者となった。私たちも、内にキリストに生きていただくとき、造り変えられ、神の御心を見分ける者となる(ロマ12:1,2)。


 私たちは、どのような歩みを送っているか。終わりの近い今、自らの姿を点検し、砕かれて神の前に出ていきたい。