一本の杭
エズラ9:1-15
エズラ記は、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還し、国を再興する時代に記された書巻だ。BC536年、ペルシア王キュロスが発布した帰還命令を受けて、帰還したイスラエルの人々は、神殿の再建に取り組んだ(1-3章)。妨害によって再建工事の中断を余儀なくされたものの(4章)、神殿は完成した(5-6章)。祭司エズラが帰還したのは、神殿完成の直後だった(7-8章)。その彼に真っ先に知らされたのが、民の中に根深く残る罪の実態だった(1,2節)。律法で固く禁じられていた雑婚が原因だった(11,12節, レビ18:24,25)。彼は、悔い改めと憐れみを求める祈りを神にささげた。
まず彼は、自分たちが罪に汚れた者たちであること、それゆえに、捕囚の憂き目に逢ったことを告白し、しかしながら、神の憐れみによって自分たちが捕囚の地から導き出され、今ここに至っていることを感謝している。これは、私たちが献げるべき祈りでもある。
「一本の杭」という表現がある(8節)。これはキリストの十字架の型だ。キリストは、神から遣わされて私たちのところへ来られ、一本の杭、十字架にかかって救いを成し遂げてくださった(イザ22:20-23)。私たちの目を明るくし(8節)、私たちを救い出すためだった。
私たちは罪の中に縛られ、目を閉ざされた罪の奴隷だった(ヨハ8:34,テト3:3)。その罪のために私たちは滅びる者だった。しかし、キリストが十字架による救いを与えてくださった。私たちの心を照らし、私たちの目を開くため(ルカ11:34-36)、そして、私たちを罪の奴隷から解放するためだった(ロマ6:6, ヘブ2:14,15, ガラ5:1)。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。この救いをいただいた者は、キリストを私の光と告白しながら、喜びと確信をもって生きていく(詩篇19:8, 27:1)。「一本の杭」を心の中に打ち込んでいただいた歩みが始まる。
こうして救われた者はやがて必ず、自らの内に罪の性質があることに気が付く。目を明るくしていただいたはずなのに、神に逆らう暗闇を好んでいる(ルカ11:35)。罪の奴隷から解放されたはずなのに、なおも罪を犯し、再び奴隷のくびきを負わされている(ガラ5:1b)。神を信じ、神に従う歩みを始めたはずなのに、不信仰と不従順の歩みしかできない。エズラが「事実、私たちは奴隷です」と嘆いているように(9節)、私たちは肉のままでは、真に自由の者ではない。
エズラは民と共に砕かれて神の前に出た(15節, 10:1)。そして、汚れたものからの訣別を命じた(10:10-12)。砕かれて神の前に出ていき、汚れから訣別することこそ、私たちがなすべきことだ(2コリ6:14-18)。私たちが心からそうするなら、神は真実をもって導き、私たちに「一本の杭」であるキリストの十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。
エズラは、石垣も神が下さったと感謝している(9節)。後に続くネヘミヤ記では、エルサレムの城壁が築き直される。民が罪から訣別したから、城壁が再建できたのだ。私たちも、肉を始末し、内にキリストに生きていただくなら、キリストによって石垣を建て直し、信仰を堅固な城壁とした者となることができる(ミカ7:11-13, エレ15:20)。
「一本の杭」は、私たちにも与えられる。救いと聖潔をいただき、魂の再建を果たす者となりたい。





