礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.08.31

汝なお一つを欠く

ルカ18:18-30

 ここに登場する人物は、恵みを求めてイエスのもとに来た。彼は指導者であり、青年であり(マタ19章)、また裕福な人で(23節)、自分から永遠のいのちを求めてきた。地位、若さ、富など、人が欲しいと思うものが全部そろっており、何不足ない境遇にいたが、満足がなかった。それは、永遠のいのちを自分のものとしていなかったからだ。


 永遠のいのちは、ユダヤ人たちが求めてやまないもので、これを得るために律法を守ってきたと言ってよい。だからイエスは「戒めはあなたも知っているはずです」(20節)と言われたのだ。戒め・律法とは、イスラエルの民が神を信じ幸せを得るように、永遠のいのちを得るようにと、神が彼らに与えられた掟(おきて)だ。


 イエスの言葉に対して彼は、幼少から守ってきたと胸を張って答えた(21節)。彼は何不足ない境遇だっただけでなく、道徳的にも立派だったのだ。世間的に立派な人、偉い人と評判されていたのだが、どれほど努力しても誉められても、永遠のいのちがなかったのだ。


 イエスは慈しみの目で彼を見つめられた(マル10:21)。そして「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります…」と言われた。家庭や才能に恵まれ、エリートコースを歩んできた彼は、誰からもそのように言われたことはなかったが、主がはっきりと指摘された。


 主は、持ち物を売り払って、貧しい者に与えよと言われた。この言葉に彼は鋭く刺された。自分でも気が付かなかった心の奥底を見透かされたのだ。しかし、悲しみながら立ち去った(マル10:22)。従えなかったのだ。資産に強い執着・愛情を持っていたからだ。


 イエスが言わんとされたのは、慈善事業の勧めでも、善い行いをすれば永遠のいのちが得られるという安易な約束でもない。心が何に向いているか、何を第一としているかを指摘されたのだ。

 「『姦淫してはならない。殺してはならない…』」は、結局「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタ19:19)になる。彼は指導者だから、律法に精通していたはずだ。実際、小さい時から律法を遵守(じゅんしゅ)してきた。その彼に欠けていたものは、律法の根底に流れる愛を知ることだった。「隣人を愛せよ」とあることは知っているが、自分のうちには金銀への愛だけで、人を愛する愛など皆無だというところに光が当てられ、彼は悲しみながら立ち去ったのだ。形の上では律法を遵守してきたが、律法が真に求めている愛が欠落していたのだ。


 イエスは最後に「そのうえで、わたしに従って来なさい」(22節)と言われた。結論はこれだ。真の愛に開かれるためには、イエスに従うことだ。なぜなら、イエスは神の真の愛を具現された方だからだ。


 キリストは神であられた(ヨハ1:1)が、私たちと同じ人となって神のもとからこの世に遣われた(ヨハ1:14a)。そして、私たちを罪から救うために十字架にかかられた。私たちはまず、天地創造のまことの神を知らないというこの罪が自分にあることを、そして、そのままでは滅びることを知らなければならない。知ったら、神の前に罪を悔い改めるのだ。


 私たちに求められているのは、どれほど深く主の前に出ているかだ。真摯に罪を認め、神の前に徹底して悔い改め、十字架を信じることだ。そうするなら罪が赦され、滅びから免れさせられる。

 永遠のいのち、罪からの救いは私たちにもぜひ必要だ。これを得るために求められていることはイエスに従うこと、イエスを信じることだ。


 永遠のいのちとは、さらには一切の汚れからの聖潔(きよめ)だ。古き人が何であるかがわからなければならない。わかったらそれを十字架につけ、キリストが内に住み給うという信仰に啓かれる(ガラ2:19,20)。求められていることは御言葉に従うことだ。


 イエスは「汝なお一つを欠く」(マル10:21文)と言われる。あれもこれもではない。ただ一つ、イエスに従うことだ。従って恵みを得、恵みを得たらさらに従う。私たちの歩みは、ただイエスに従うだけだ。そこにこそ真の自由があるのだ(ヨハ8:32)。従うことができないと言ってはならない。こちらに願いがあれば、主が従う者にならせてくださる(27節)。終わりの日、主に従ってきた魂として、御前に立たせられたい。