わたしを愛していますか
ヨハネ21:15-25
先週開かれたトマスの他に、もう一人復活のキリストに取り扱われる必要のある弟子がいた。ペテロだ。彼は、イエスが十字架にかかられる直前、イエスを三度否定した(18:15-17, 25-27, ルカ22:61, 62)。イエスが予告された通りだったが、それは、どこまでもあなたに従っていきますと豪語した彼に向かって予告されたことだった(ルカ22:33,34)。そのときの彼は、愛する主をまさか自分が否定するなど、あり得ないと思っていた。主に対する愛にそれほどの自信があった。ところが、予告は実現し、彼は主を否定し、裏切った。彼の心中はどうだっただろうか。もう主に会わせる顔がない、自分は弟子失格だと思っていたことだろう(3節a)。しかし、主のほうは、そんな彼のことを決して見放してはおられなかった。ガリラヤ湖で弟子たちに会ってくださり、彼らにすばらしい奇跡を体験させなさった(3b-13節)復活のキリストは、落ち込み、絶望していたペテロに向き合ってくださり、彼の信仰を再び立たせようとされた。それが今日の箇所だ。
主はまず「わたしを愛していますか」と彼に問われた。彼は「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えている(15節)。このやりとりをギリシャ語の原文で見ると、主の“愛する”には“アガパオー”という神の愛を表す語が使われており、ペテロの“愛する”には“フィレオー”という人間の愛を表す語が使われている。二度目のやりとり(16節)も同じだ。そして、三度目のやりとりで、主は“フィレオー”を使って「愛していますか」と問われ、彼も“フィレオー”を使って「愛している」と応えている(17節)。
私たちは、本来、神のかたちに創造され、神の愛の内を生きる存在だった。しかし、罪が入り神のかたちが壊されてしまった。罪によって神の愛をはねのけた私たちは、神から断絶された者として滅びる存在となった。しかし、神の側では私たちに向けられた愛は途絶えることなく注がれ続け、ついに最も明確な形で神の愛が示された。それが、イエス・キリストによる救いだ。キリストは神のもとから遣わされ、私たちと同じ人となってこの地上に来てくださった。まさに、“アガパオー”のお方が“フィレオー”になってくださったのだ。そして、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた。この十字架と復活こそ、神がキリストを通して表された愛であり、私たちが滅びから救われるための救いの道だ(1ヨハ4:9,10, ヨハ3:16)。どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。
このようにして、神の愛によって救われた私たちだが、自分の内からどのような愛が出ているか。愛だと言いながら、上べだけ取り繕い、その実、愛などかけらもない本性がないか。制限だらけで、突き詰めると自己中心な実態がないか。本来神に向かうはずの愛が、世のもの、自分に都合の良いもの、ひいては自分自身にだけ向かっていないか(2テモ3:1-5)。これらは、全て私たちから出る愛が人間の愛だからだ。ペテロのように、自分は愛に溢れていると思い込んでいても、立場が悪くなると裏切ってしまう。こうした人間の愛の根本にあるのは、私たちの内側に残る肉だ。この肉を残している限り、私たちは神の愛を現して神に喜んでいただける生き方はできず、最後には滅んでしまう。私たちに必要なことは、ペテロのように、自分には人間の愛しかありませんと、砕かれて神の前に出ていくことだ。そのような者に、神は十字架を示してくださる。私たちが示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内に生きて働いてくださるキリストを通して、神の愛によって生きる者となる(エペ3:16-19)。もはや、かつてのように人間の愛によって生きるのではない。神の愛に生かされ、神の愛を溢れさせ、神の愛を現して生きる者となる。神の愛が全うされた者の姿だ(1ヨハ4:16,17)。
今日の箇所の後、ペテロを始めとする、待ち望んでいた弟子たちの上に聖霊が降り、彼らは全く新しく変えられた。そして、文字通り命をかけてキリストを証し、神の愛を人々に現していった。神は、私たちにも、神の愛によって生きる者となってほしいと願い、「わたしを愛していますか」と問うておられる。自分からはどんな愛が出ているのか、私たちも自らを省み、主の前に出ていきたい。