礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.10.20

その足跡に従うようにと

Ⅰペテロ2:11-25

キリストの血によって救われ、選びの中に入れられた私たちは、この世で旅人・寄留者として歩む者として召されている(2:11)。

それに続いて、しもべ(当時は奴隷制度が敷かれていた)に対する勧めが述べられる。結論は「従いなさい」だ。それも、神を畏れるように、敬虔をもって肉の主人にも従えと言われている。主人は異邦人であり、気難しい主人、不当に苦しめる主人もいた。しかし、クリスチャンの奴隷は、神の前に生きる者として、喜んで耐え忍ぶよう勧められている。それが神に喜ばれることだと言うのだ。

従うということにおいては、イエスが模範を残された(21節)。主は罪を犯さない御方で、その口には何の欺きも見いだされなかった(22節)。欺きと言えば、本書の著者ペテロには苦い思い出があった。人々の前で主を知らないと言ったのだ。それは、自分を守るため、自分を愛するためだった。これは人間の生来の姿だ。しかし、罪なき神の子である主には欺きがなかった。

イエスはひどい扱いを受けられた。夜に逮捕され、真夜中の裁判をたらい回しにされた。不眠不休で、食事も与えられなかった。目隠しをされて平手で打たれ、鞭で打たれ、嘲弄(ちょうろう)され、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけられた。そして、ついに十字架につけられた。

イエスは罵(ののし)られても罵り返すことがなく、苦しめられても脅(おど)すことがないお方だった(23節)。それどころか、「父よ、彼らをお赦しください…」(ルカ23:34)と祈られた。主が罵り返さなかったのは、正しく裁かれる神に任せておられたからだ。真実な神は、最後に必ず公正にお裁きになるという絶対信頼があったからだ。

このイエスの死によって、私たちに救いがもたらされた。罪の赦しと義認の恵みが与えられたのだ(24節)。私たちの罪はイエスの打ち傷のゆえに癒やされ、私たちは神の前に罪と言う傷がない者とされた(イザ53:5)。罪のために滅びに向かってさ迷っていた私たちは、神に立ち帰ることができた(25節)。神との和解が与えられたのだ。

イエスの十字架に至るまでの従順がなければ、私たちの救いはなかった。私たちが救われたのは、私たちも主のように従順な者になるためだ。主の足跡とは御旨に対する従順だ。

けれども、私たちの内には、生まれながらにして神への反逆心がある。過去の罪は赦され、神との和解が与えられても、何かあるとその反逆心が鎌首をもたげてくる。自己中心で、どこまでも自分がかわいく、人から言われると腹が立つ、というような者だ。神に対する敵対性(イザ53:5a)と言われる、内に住みついているこの罪が、どれほど神を傷つけ、悲しませていることか。

しかし、私たちにはイエスの十字架がある。主は十字架上で「完了した」と叫ばれた(ヨハ19:30)。私たちの救いが成し遂げられたという宣言だ。その十字架を仰ぐなら、私たちのために備えられた全き贖いを受け取ることができ、信仰によって主と共に生きる者となる(ガラ5:24)。

この恵みによって、私たちは従順な者になり、主の足跡に従うことができる。そういう者にするために、主はいのちをかけて模範を示されたのだ(21節)。

今は終わりの時代だ。自分に残された時が短いことを知っているサタンは、私たちがいただいた贖いの恵みを割り引こう、世と妥協させよう、低いところに甘んじさせようと必死に働きかけてくる。明確な贖いの恵みをいただいて、信仰によって主の足跡に従う者になり、罪と世とサタンに勝つ者としていただこう。

主の足跡に従う道は、決して平易な道ではない。困難・試練はある。しかし、聖霊の内からの励ましや助けによって前進し、大いなる喜びと平安をもって主の前に立たせていただくことができると確信する。