礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.12.10

その時が来れば実現する主のことば

ルカ1:5-25

今日は、バプテスマのヨハネの誕生にまつわる箇所だ。彼はキリストに先立って人々の心を整える役割を果たした人物だが、その誕生もまた、現代の私たちの心を整えてくれる(17節)。

祭司であった父ザカリヤは、神の前に正しく生き、落ち度なく神の律法に従っていた(6節)。祭司には、モーセの時代から受け継がれていた、神殿で香をたく務めがあった(出30:7,8)。香とは祈りのことだ(詩141:2, 黙5:8, 8:4)。祭司は民を代表して神の前に出て、民のとりなしと祝福のために祈った。時代は混沌としていた。ローマによる支配は続き、国内ではヘロデ王たち為政者の世俗化が深刻化し、エルサレムの神殿を中心とした宗教面は形骸化の一途を辿っていた。人々の心は、溜まる不安と不満によって疲弊していた。ザカリヤはそれらの現状を嘆きつつ、預言されていたメシア(救世主)到来を待ち望み、メシアの前に人々の心が整えられ、神の前に正しく生きるようにと真剣に祈っていた。最初のクリスマスに際し、まずこの祈りがあったことを覚えたい。アドベントに必要なのは、熱い祈りだ。世の闇を憂い、滅びゆく魂のためにとりなす祈りだ。

このような祈りをささげていたザカリヤの目の前で、御使いが「あなたの祈が聞きいれられた」(13節口語訳)と告げたとき、彼は即座に感謝をささげ、神をほめたたえるべきだった。ザカリヤという名前の意味は、“神が覚えておられた”だ。彼の祈りを神が覚えてくださっていたのだ。だが、彼がとった態度は、不信仰だった。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか」(18節)という彼の言葉は、およそ神に仕える者にふさわしい反応とは程遠い。なぜなら、神の御心と約束が余すところなく記されている聖書が与えられ、それに精通しているはずの立場だからだ。彼自身も気が付かない間に彼の中にはびこり、信仰の目を閉ざしていたのは、常識的な考えだった。常識は、時に信仰の目を塞ぎ、神のみわざを止める。

御使いが彼に下した、話せなくなるという宣告は厳しかった。「その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったから」(20節)だ。しかし、これは、神が与えられた沈黙によって、自らの姿を省み、聖書を悟り、悔い改める機会だったのだ。おそらく彼は、学んだ聖書を思い返し、「何よって知ることができる」かの答えを悟った。人の常識などに決して囚われることなく、時が来れば必ず神のことばが実現することは、聖書に明記されている。イザヤ55:8-11はその代表的な箇所だ。不信仰のために神から一度は罰せられ、その後、神の真実によって回復させていただくという約束のことばが必ず実現することが預言されている。キリストはまさに神のことばの実現として来られた(ヨハ1:14)。十字架のことばによって、救いを成し遂げるためだった(1コリ1:18)。

私たちは、罪を悔い改め、キリストの十字架を信じる信仰によって、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。さらに、救われた後、なおも残る罪の根も始末し、内にキリストに生きていただくことができる。人間的や常識的な思いによって神のみわざを止め、のさばる自我によって神のことばが実現するのを阻む実態が私たちの内側にもあることを認めたい。自らの罪の本性を十字架につけて始末するならば、キリストが私の内に臨み、生きてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。神のことばは私たちの内に留まり、内に働くキリストによって神のことばが実現していく。

御使いが告げた通り、子どもは生まれた(1:57)。名付けのときに、ザカリヤは信仰を働かせ、ヨハネと名付けた(1:63,64)。これも、先に失敗した彼が、今度こそは信仰を働かせるようにという、神が備えてくださった機会だった。私たちも、神の御言葉に対する信仰が求められている。その時が来れば必ず実現する御言葉を信じ、今年のアドベントを過ごしたい。