礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.02.26

一緒に歩まれる主の心

Ⅱ列王5:1-14,25-27

今日は、アラムの将軍ナアマンの癒しの記事が開かれているが、癒しの後に起こった預言者エリシャの従者ゲハジにも目を留めたい。

特に注目したいのは、この二人の心だ。ナアマンは、初めエリシャの対応と命じられた方法に腹を立て、立ち去ろうとした(11,12節)。しかし、彼のしもべたちの助言があり(13節)、彼は心をひるがえして従った。そして、驚くような癒しを体験することになった(14節)。一方のゲハジは、ナアマンがエリシャに献上しようと持ってきた贈り物に目をつけ、それを密かに自分のものとした。彼は、途中で心をひるがえすことがなかったばかりか、はっきりとした企みをもって(20節)、自分の意を遂げた(24節)。その結果、神からの裁きを身に受けることになった(27節)。前者は、本来は真の神への信仰から遠く離れた異邦人だったが、肉体の癒しが与えられ、神への信仰へと導かれた。後者は、神の教えをいつも聞き、神の御心を悟っていたはずの立場でありながら、神に背き、厳しい裁きを下されることになった。この二人の分岐点は、心を神の方へ向けたかどうかだった。

私たちはどうだろうか。私たちの心はどこを向いているだろうか。自分の気に入らなければ機嫌を悪くし、怒ったナアマンの心も、神に喜ばれないとわかっていても、何が何でも我意を押し通したゲハジの心も、神に背を向けた罪の姿だ。ナアマンの全身は、重度のツァラアトという不治の病に冒されていた。ツァラアトは、聖書では汚れや罪を表す印として描かれ、そのままでは死を免れない恐ろしいものだった。私たちも、罪を抱えたままでは、滅びゆく存在だ(ロマ6:23a)。しかし、私たちを罪と滅びから解放し、私たちの心をもう一度神の方へ向けさせるために、神は救いの道を備えてくださった。それが、キリストの十字架と復活だ(ロマ4:25)。私たちは、どんな罪を抱えていても、心をひるがえして自分の罪を悔い改め、キリストの十字架を信じるならば、罪の赦しと滅びからの救いをいただき、神に心を向けて歩み始めることができる(ルカ15:17-20a)。ツァラアトのように私たちを滅びに定めていた運命は、きれいに消え去り、私たちは永遠の命に生きる希望に溢れて生きる者となる(ヨハ3:16)。

こうして明確な救いをいただいた者は、やがて必ず、救われた後なおも心に残る罪の性質に気が付く。ちょうど異邦人のナアマンが初めて真の神と出会い、癒された姿が最初の救いとするならば、ゲハジは罪の根を抱えた姿だと言える。彼は、神を知り、神の教えをいつも聞いている立場にあったからだ。それにも関わらず、彼の心は神に向いていなかった。何食わぬ顔で帰ってきた彼に向かって、エリシャは「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき」(26節)と言った。場面を遡って辿ると、戦車から降りたナアマンは「何か変わったことでも」(21節)と尋ねており、原語では“シャローム(平安)”となっている。つまり、この問いこそ、神が指し示した光だったのだ。私たちの本当の平安はキリストから与えられる(ヨハ14:27, ロマ8:6-8)。だが、罪の根を野放しにし、心を神の方へひるがえそうとしない者の内に、平安はない。神は、私たちの心にも光を当てられる(ヨハ13:26)。神から光を当てられたならば、私たちは自らの心を省み、心をひるがえして神の方を向きたい(1列王21:27-29)。そして、信仰によって罪の根をキリストの十字架につけて始末したい。そうするならば、キリストが内に臨んでくださり、内に生きてくださる。キリストによる平安をいただき、神の御心に開かれて生きる者となる(ロマ13:14)。

主は私たちの心をご覧になる(1サム16:7c)。私たちが心をひるがえしてご自分の方を向くかどうかをご覧になる(マタ21:28-32)。そして、私たちが心をご自分に向け、ご自分の御心に歩むかどうかをご覧になる(2歴代16:9a)。私たちと一緒に歩んでくださる主の心を悟る者となりたい。