礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.01.01

主イエスよ、来りたまえ

黙示録22:1-21

本書は、老聖徒ヨハネが流刑先のパトモスで見せられた終末の幻の記録だ。前章で、聖都エルサレムの栄光の姿が現された(21:10-27)。神と子羊が神殿であり、子羊が都の明かりだ。門は閉ざされることがない。夜がなく、恐れるものがない。子羊のいのちの書に名を記されている者なら、いつでも誰でも出入りできる。実に素晴らしい光景だ。

その聖都をヨハネに見せた同じ御使いが、いのちの水の川を見せる(1節)。源流は神と子羊との御座だ(7:17a、21:6b)。その泉から、子羊が招き続けていた。そこから川が流れ、川の両側にはいのちの木が繁り、十二種の実が毎月成り、葉は薬用に供せられる。

イエスが仮庵の祭りの終わりの日に、立って叫ばれた聖霊の河(ヨハ7:37-39)は、このいのちの水の川の予表と思われる。聖霊を頂いた者が、新しい都に入ることができる。それが額に神の御名が記されている者ということだ(4節)。そこでは、呪われるものは何もない(3節)。喜び、感謝、平安があるだけだ。なぜなら、私たち贖われた者は真の礼拝を捧げるからだ(3,4節)。地の王たちは自らの栄光を携えて礼拝するが(21:24)、私たちは主の御顔を仰ぎ見る。主の御顔だけを仰ぎ見、真心からの礼拝を捧げる。

これらの言葉は、信ずべき真実な神の言葉だ(6節)。「すぐに起こるべきこと」(同)と言うが、あれから2000年たった今も、まだ起こらない。嘲笑う者、侮る者もいるが、真実な神は忍耐しておられるのだ(2ペテ3:9)。「この書の預言のことばを守る者」(7節)、すなわち御言葉に従う者には、豊かな祝福が与えられる。

私たちは、こういう新天新地に招かれている。信じて喜び従う者になりたい。罪から救われ、汚れから潔められ、御国に入る者になりたい。

聖なる都エルサレムは、教会の完成の姿だ。もはや目に見える教会はない。呪われるべきものは何もなく、喜んで絶えず御顔を仰ぎ見ているという、キリスト内住の信仰に啓かれたクリスチャンの姿だ。まさに内に在すキリスト、栄光の望みだ(コロ1:27)。

「見よ、わたしはすぐに来る」(12節)とは、再臨の2回目の予告だ(7節)。その時主は、「行い」つまり信仰と従順に対して報いをお与えになる。どれだけ信じて従ったかに応じて報いが与えられるのだ。「わたしはアルファであり、オメガである…」(13節)と、天地を創造し、滅ぼし、新天新地を現わされる主がお与えになる報いだから、確かな報いだ。

「来りたまえ」(17節文語)は、キリストの花嫁である教会、新天新地の約束が与えられている贖われたクリスチャンの切なる求めであり、主の再臨を心から待ち望む叫びだ。そう叫ぶ者を、主は「渇く者は来なさい…」と招かれる。この主の招きに答えるかどうかが重要だ。ここまで招き続けられているのだから、私たちが答えないとするなら、主はどれほど悲しまれるだろうか。

「しかり。わたしはすぐに来る」(20節)との主のお言葉に、私たちの一切の希望がかかっている。全ての事は主が来たり給うまでだ。その時、全ての約束は成就する。贖いは完成し、希望は満たされ、矛盾は解消し、不幸は取り除かれ、悪は滅ぼされる。

「アァメン、主イエスよ、来りたまえ」(20節文)は、地上の教会の最後の祷告であり、再臨待望の熱祷だ。今まで2000年間捧げられてきた。もう機が熟している。主イエスは今にも御座から立ち上がろうとしておられる。いよいよ待ち望みたい。また宣教の聖業に励みたい(1コリ15:58)。