礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.06.12

弟子とせよ

マタイ28:16-20

先週はペンテコステ記念礼拝だった。約束の聖霊を待ち望む弟子たちの脳裏に鮮明に焼き付いていたのは、イエスが天に昇られる直前に残された言葉だった。マタイ・マルコ・ルカの福音書、そして、使徒の働きにそれぞれ記されており、それぞれ大切なメッセージが込められているが、今日はその中のマタイの福音書が開かれている。

今日の箇所の19節に「弟子としなさい」とある。弟子とはクリスチャンのこと、それも、本物のクリスチャンのことだ。弟子と呼ばれるにふさわしい本物のクリスチャンとは、どういう者なのか。

まず、キリストの前にひざまずき、キリストに近づいていただく者、つまり、キリストの救いを明確にいただき、救いを土台として生きる者だ。17節aには弟子たちがイエスを礼拝する姿が描かれているが、マタイの福音書の始めにも、博士たちが幼子イエスを礼拝する姿があった(マタ2:11a)。どちらも、王であるキリストの前にへりくだり、虚しくなって、ひざまずく姿だ。礼拝は、そのような謙虚な姿勢が求められる。そのように御前に出る者に、キリストは近づいてくださる(18節, ヤコ4:8,10)。この近づいてくださるキリストこそ、救い主としての姿だ。キリストは、神の御子としての権威を捨て、人となって私たちのところに来てくださった。十字架にかかって死に、死を打ち破って、よみがえられた。このキリストの十字架と復活を信じるならば、私たちは罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。

ところで、弟子たちの中には「疑う者たちもいた」(17節)。これは、信じたくても信じきれない、信仰に踏み切れずにいるという意味だ。そのような者にも、キリストは近づいてくださる。そして、信じる者となるように、救いを受け取るようにと声をかけてくださる(マタ14:31, ヨハ20:27)。私たちも、キリストの前にひざまずき、キリストに近づいていただきたい。明確な救いをいただき、救いを土台として生きる者になりたい。

次に、キリストの十字架のもとで、古いものを捨て、新しくしていただく者、つまり、肉を始末し、キリストに内に臨んでいただく者だ。イエスの例え話に、「天の御国の弟子となった学者」(マタ13:52)がある。彼は「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す」。前の節までの文脈から、古い物は捨てるために、新しい物は活かすために取り出すのだとわかる。自分の倉にある物の内、どれが古くて捨てるべきなのか、どれが新しくて活かすべきなのかを、弟子となった者は知っているのだ。また、もう一人、「イエスの弟子」(マタ27:57)と称される人物がいる。アリマタヤのヨセフだ。彼は、「有力な議員」(マル15:43)でありながら、イエスを信じていた。だが、彼は「ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」(ヨハ19:38)。そんな彼が、イエスの十字架のもとに来て、イエスの葬りという重大な役割を果たすことになった。弟子となった者は、主の十字架のもとに来る。十字架のもとで自分の捨て去るべき古いものがはっきりし、信仰に立つことができる。

マルコの福音書の平行記事には、復活のキリストが弟子たちの前に現れ、「彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」(マル16:14)とある。これは、彼らが自分たちの汚れに光を当てていただき、自覚させられたということだ。彼らを打ち砕いて、悔い改めへと導くため、彼らを弟子にふさわしい者とするための主の取り扱いだ。私たちも主から取り扱われたい。自らの中にどんな汚れがあるのかを認め、その汚れを十字架につけて始末したい。そうするならば、私たちはキリストが内に臨んでいただき、新しい者として信仰に立つことができる。

さらに、信仰を守り続け、キリストと共に歩み続ける者だ。今日の箇所にも(20節)、マタイの福音書の最初にも(1:23)、臨在の約束が語られている。臨在とは、漠然としたものではなく、救いと聖潔を与えてくださる主が、私の只中にいてくださるという信仰だ。この信仰に立つ者こそが、キリストの弟子だ。キリストに共に働いていただく者こそ、キリストの弟子にふさわしい者、本物のクリスチャンだ(マル16:20)。ただし、信仰は守らなければならない(20節)。私たちを信仰から外れさせようとする力は絶えず襲ってくるからだ(2テモ4:7)。

弟子とせよとおっしゃった主の前に出て、私たちも、自分は弟子にふさわしいか、本物のクリスチャンとなっているかと、自らの姿を省みたい。