礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.03.20

みこころのままに

ルカ22:39-46

十字架にかかられる前夜、イエスはいつもの祈りの場所であるゲッセマネの園へ行かれた。そして、主は弟子たちに、少しでも誘惑に陥らないように祈るよう言われた(40節)。主は祈りをこよなく愛された。思えば、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、祈っている主に聖霊が降られた(3:21,22)。ある先生は、イエスは祈りなくしてもやっていける己を川底に沈めて来られたと語られた。主はそれほど祈りを大切にされたのだ。

イエスは、少し前に、信仰が無くならないようにペテロのために祈られた(32節)が、ここでは十字架を目前にしてご自分のために祈られた。主は「父よ、御旨ならば、この杯を我より取り去りたまえ」(42節文語)と祈られた。杯は神の怒りを指す(イザ51:17、エレ25:15)。神の怒りを受けるべき理由はイエスにはなかった。父なる神にとって主は「これはわたしの愛する子…」(マタ3:17、17:5)と信任された最愛の御子であり、主のほうも父に絶対的に信頼された(ヨハ5:19、8:29)。この親密な信頼関係にもかかわらず、それでも主は杯を受けなければならなかった。

イエスは十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた(マタ27:46)。十字架の苦しみは、肉体的、精神的な苦痛以上に、絶対的に信頼していた神からも捨てられるという霊的な苦痛があった。主が取り去っていただきたいと願われた杯とは、父との断絶という霊的暗黒だったのだ。主の苦悶は深かった(マル14:33,34)。汗が血の滴りのように地に落ちるほど、悶えて祈られた(44節)。

けれども、イエスの祈りはそれで終わらなかった。主は「然れど我が意(こころ)にあらずして御意(みこころ)の成らんことを願う」(42節文語)と祈られた。何が何でも杯を受けたくない、というのではない。自分の思い・願い・希望・計画を押し通すのではなく、神の御思い・御願い・御計画を求められた。御心への屈服だ。自分の意志を神の御旨に服させなさったのだ。

主はゲッセマネで勝利をとられた。すでに自分の願いを十字架に付け、祭壇に自分自身を献げきられた。勝利の秘訣は御心への全き服従だ。

みことばを聞いても従わないという己れを抱え込んだままでは、勝利はない。まず己れがどういうものかを知らなければならない。どこまでも自分を可愛がり、自分の願いを押し通したいという自己中心の塊のような者だと認め、そういう己れを嫌だと思って、キリストの十字架において己に死に、御心に屈服するとき、勝利が与えられる。復活のキリストが内に臨まれるからだ。それが、十字架と復活のキリストに信仰によって合わせられるということだ。御旨に徹底して従われた主が内住されれば、自ずと私たちも従順になるはずだ。

パウロは「キリストが形造られるまで」(ガラ4:19)と言った。キリストのかたちとは、神の御旨への従順にほかならない。キリストのもの(ロマ8:9)とは、十字架の死に至るまでの御心への徹底的な従順というキリストの思いを持つ者だ。

私たちもゲッセマネの祈りを自分のいつもの祈りにしたい。いつも本心から御心に従う者になりたい。キリストの内住の恵みによってそうなれる。真実な主は、必ずそのように導いてくださる。