礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.02.27

腰に帯をしめよ

ルカ12:22-40

イエスは弟子たちに、「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。」と言われた。これは心配することに対する戒め(22節)に続く場面だ。烏や野の花など、小さな存在をも養ってくださる真実な神に信頼できないことから、心配が生じる。主は、「信仰の薄い人たちよ」(28節)と嘆かれるが、信じていると言いながら自分の力でなんとかしようとしたり、父なる神が私たちの必要をご存じで(30節)、満たしてくださることが信じられなかったりするところから、心配が生じるのだ。

私たちの求めるべきものは神の国だ(31節)。神の国とは、神の支配のもとにおらせられる充足と安息だ。主は、「小さな群れよ、恐れることはありません」と励まされる(32節)。謙虚に恵みを求め、神の国を求めたい。肉が働く余地がないまでに、もっと神に支配していただきたい。

 

こういう文脈で「腰に帯を締め…」(35節)と語られる。腰に帯を締め、明かりをともすとは、待っている姿であり、またいつでも立ち上がることができる姿だ。この姿勢がないと、帰宅する主人を出迎えられない(36節)。

帰宅した主人を喜ばせるものは、①すぐに戸を開けるしもべだ。彼には、主人への愛から、いつでも開けられる用意がある。また、②目を覚しているしもべだ(37節)。ただ起きているだけではなく、目を覚まして主人を迎える準備をしているのだ。いつ主人が帰宅しても、迎えられる用意ができているのだ。

主人に喜ばれるしもべとは(42節-)、「忠実で賢い管理人」のように、神の全財産の管理を任せていただける、良い忠実なしもべだ(マタ25:11)。逆に悪いしもべとは、「主人の思いを知りながら用意も」(47節)しない者だ。私たちを御国に迎えたいという神の心を知っていながら、自らの魂の用意もせず、日々主の前に忠実に歩むこともしないなら、終りの日に主から裁かれるだろう。

 

主は、ご自分が火を地上に投げ込むために来たと言われた(49節)。バプテスマのヨハネが証ししたように(ルカ3:16)、主は、あらゆる罪汚れを焼き尽くす聖霊の火を投げ込むために来られた。「火がすでに燃えていたらと…」(49節)と、主はご自分の重荷を吐露される。実際に聖霊の火が下るのはペンテコステを待たねばならなかったが、「火がすでに…」とは、主の率直な願いだった。

 

主が来られたのは、平和をもたらすためではなく、むしろ分裂をもたらすため(51節)、とは衝撃的な言葉だ。平和の君と称えられたイエスだが、私たちがイエスを受け入れるか否か、信じるか否か、従うか否かで、私たちは分けられる。私たちは、従うか従わないかの選択を迫られるのだ。この選択がきっちりとできるのは、聖霊の火が通った魂、つまり救われてもまだ神に喜ばれない肉を十字架につけて己に死に、キリストが内に生きておられるという信仰に啓かれた者だ。信仰によって聖霊をいただきたい。

腰に信仰の帯を締めて、主の再臨を持ち望もう。主を喜んで迎え、御国に携え入れられるしもべにならせていただこう。