礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.01.16

わたしの霊によって

ゼカリヤ4:1-14

預言者ゼカリヤは、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民が、エルサレムに神殿を再建するわざに当たった際、それを霊的に支えた人物だ(エズ5:1,2, 6:14,15)。この神殿再建は、激しい妨害に遭い難航するが、彼は、指導者ゼルバベルを励まし、神の御心によってこのわざは必ず成し遂げられることを、預言を通して示した。このような背景で書かれたゼカリヤ書には、現代の私たちの信仰が建て上げられていくのに、大きな励ましとなる御言葉が散りばめられている。

クリスチャンは、明確なキリストの救いをいただいたならば、必ず信仰が成長する。もし成長がないようなら、救いを見直すべきだ。預言を通してエルサレムの神殿が建てられていったように、御言葉を通して、私たちの信仰も建て上げられていく。また、ゼカリヤ書には、やがて来るべき救い主、メシアを指し示した記述が多く見られる(ゼカ9:9)。私たちの信仰の建て上げには、キリストが不可欠だ。

本日の箇所に描かれている幻に目を向けたい。「燭台」(2節)は、直接的には、指導者ゼルバベルを指すが、霊的には、キリストを中心にして私たちの信仰が成長していく姿を表している。「二本のオリーブの木」(3節)は、「油注がれた者」(14節)だと解説されている。これは、直接的には、ゼルバベルに霊的な支えを供給する預言者たちを指していると思われる。しかし、霊的に見るならば、これは聖霊を表している。だから、オリーブの木から延びた「金の管」(12節)を「金の油」(同)が流れるので、燭台の火は燃え続けることができる。

油も火も聖霊の象徴である。燭台に絶えず油が供給されていれば火が消えないように、私たちにも聖霊が注がれ続けていれば、私たちは聖霊に満たされて進んでいくことができる。キリストの救いをいただいた者たちは、キリストを中心に据えてその信仰を建て上げられていく。その建て上げを助け、支え、導くのは聖霊だ。

このようにして、本日の中心聖句6節へとつながってくる。「権力」とは団体の勢力のこと、「能力」とは個人の力量のことだ。そうした聖霊以外のものに寄り頼んでも、私たちの信仰は進まない。「わたしの霊」、神が遣わしてくださる聖霊、もしくは、臨在してくださる主ご自身によって、私たちの信仰は建て上げられていく。

私たちがキリストと個人的にお出会いしたのは聖霊の導きである。私たちは本来神の息吹によって創られた。そこに罪が入り、私たちは滅びが定まった。しかし、神のもとより遣わされたキリストの十字架と復活によって、私たちに救いの道が開かれた。聖霊は私たちの心に働き、罪をわからせ、悔い改めと罪の赦しと義認へと導く。そして、キリストによる新しい命が与えられる(ヨハ6:63)。救いの目的は、聖霊に臨んでいただく約束を与えていただくことだ(ガラ3:14)。

はっきりと救われた者は、必ず自分の肉の姿に行き当たる。救われた後も、なおも神に逆らい、自分の欲望、自分の気持ち、自分の腹を満たそうとする本性があることに気が付く。神よりも自分を優先させ、いざとなれば神を平気で裏切る自我だ。聖霊は、そこにも光を当てる。私たちがこの罪の根を信仰によって十字架につけ、始末するとき、キリストが我が内に臨んでくださる。私たちは真の意味で新しい者として生きることができる(詩51:10, エゼ36:26,27, ロマ8:9-11)。

こうして聖霊によって新しくしていただいた者は、聖霊によって進む。キリストを信じる信仰によって、神の御心を深く悟りながら、生き生きと生きていくことができる。ゼカリヤと同時代の預言者エゼキエルに見せられた幻は、まさにこの聖霊によって進むクリスチャンの姿を表している(エゼ1:12,20)。

私たちは何によって進んでいるだろうか。権力や能力によって信仰は建て上がらない。「わたしの霊によって」進み、信仰を建てあげる者にならせていただきたい(ガラ5:16,25)。