礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.01.01

主の栄光を共に見る日

イザヤ40:1-11

本章から回復と希望のメッセージ、捕囚中のイスラエルの民への解放の預言が多く語られる。これが、新約時代のキリストによる救いの預言になる。終末の最終的な救いの預言だ。

「慰めよ。慰めよ。」(1節)と神は語りかけられる。イスラエルは神の民だったのに、神に反逆し、その結果バビロン捕囚となった。ところが憐れみ深い神は、捕囚からの解放の計画を立てられた。民は神から慰めを受けた。慰めるとは、力づける、内から強くされるという意味だ。恵みによって内側から力づけられねばならない。

神の裁きのために傷ついた民に、神自らが「優しく語りかけよ」(2節)と言われる。民は傷ついていた。それは自ら招いたものだったが、それでも主は癒そうとされる。

「荒野に呼ばわる者の声」(3節)とは、困難な状況の中で希望のメッセージを取り次ぐ者のことで、新約時代にはバプテスマのヨハネに適用された。まさに救い主到来が近いことを預言されているのだ。

そしてこの主の到来は、終末のキリストの再臨をも意味している。5節は文語訳で「斯て主の栄光あらわれ人みな共にこれを見ん」となっている。世の終わりに、キリストは大いなる栄光をもって再臨される。救い主の来臨は、主の栄光の顕現だ。それを全ての贖われた民が目撃する。何たる希望に満ちた特権か。ペテロは変貌山の体験を振り返り、「主の威光の目撃者」(2ペテ1:16)と、終末のキリスト再臨の栄光を預言した。

神はイザヤを「『呼ばわれ』と言う者の声」(6節)として遣わそうとされる。この声は神のことばだ。人の栄光は、短命な草花のようで、主の一息で滅びる(7節)。初め人は神の息によって生きるものとされた(創2:7)。人を生かした神の息は、同時にいのちを絶えさせる神の息でもある。人を生かすも滅ぼすも神の御心次第だ。私たちは神の権威の前に恐れをもってひれ伏すのみだ。人の言葉は変わりやすいが、神のことばは永遠だ(8節、イザ55:11、ルカ1:20)。

「シオン」「エルサレム」への「良い知らせ」とは、捕囚からの解放と救い主の到来の福音だ。イザヤは、神の救いのみわざを民に知らせることが、自分に与えられた使命だと自覚していた。私たちも、この終わりの時代に、キリストの十字架と復活の福音を広く伝えていきたい。

主が力をもって来られる(10節)とは、捕囚からの解放、キリストの受肉、終末におけるキリストの再臨が、神の全能の力による統治の開始であることを示している。今は現実的にはサタンが牛耳っているかのように見えても、キリストの初臨以後、神の国は到来しており、世の終わりにやがて必ず神の支配が完結する。

11節からは主の憐れみ深さを教えられる。主は、罪人のかしらたる私たちを、御子の十字架の血で贖ってくださった。私たちが罪を悔い改め、砕かれた魂で出て行くなら、神は私たちへの愛のゆえに、またご自身の名誉のゆえに、十字架の血をもって豊かに赦し、聖めてくださる。時には罪の代償を払うべきこともある。しかし主の憐れみにすがるなら、主は全き救いのみわざを与えてくださる。その時に私たちの魂に真の慰めが与えられる。

そして、私たちもそこから良い知らせ、福音を伝えていく者になる。恐れずに、力の限り声をあげていく者に。「声」(3,6,9節)、神の声、みことばを聞いて、祈りの声を、また宣教の声を発していこう。

主の再臨は近い。「斯て主の栄光あらわれ人みな共にこれを見ん」主の栄光が現れる日を待ち望もう。私たちは共に仰ぐのだ。主の栄光を仰ぐ教会とならせていただこう。