礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.08.22

私たちに与えられた務め

2コリント2:14-17

キリストを通して与えられる神の救いには、目的がある。パウロはそれを「務め」と捉えていることが、今日の個所からわかる (16節)。事実、救われた私たちには神から務めが与えられている。

まず、私たちに与えられているその務めとは何か。パウロは、キリストの香りを放つという表現で語っている(14,15節)。どういうことか。①キリストを証しすること。キリストの福音を人々に知らしめることである。私たちを通してキリストが現され、滅びゆく魂にいのちを吹き込み、救いに導く福音が明らかにされていく(2コリ4:10,11)。マリアがイエスの足に塗ったナルドの香油は、この象徴である(ヨハ12:3)。②キリストの栄光を現すこと。私たちは、神との和解をもたらすキリストの全権大使である(2コリ5:18-21)。ただの土の器に過ぎない私たちを通して、キリストが栄光を現してくださるから(2コリ4:5-7)、私たちは和解の福音を携えて遣わされることができる。③キリストと共に戦い、勝利にあずかること。王の凱旋行列に加わる特権(14節)に与るのは、王と共に戦った者である(ピリ1:27c)。世と敵は戦いを挑んでくる。しかし、キリストと共に戦うならば、キリストによって勝利を得ることができる(1ヨハ5:4,5, 黙17:14)。

さらに、私たちが務めに臨む原動力は何か。どんな香りにも必ず発生源がある。私たちがキリストの香りを放つときの発生源は、キリストである。キリストは、その命をかけて“神に献げられた芳しい香り”となってくださった(エペ5:2)。出エジプト記29章に、祭司の任職における全焼の献げ物についての定めが記されている。任じられた祭司は、雄の子羊を祭壇の上で焼き、香ばしい香りを神に献げなければならなかった。この子羊とはキリストの型である。キリストが先に神への芳しい香りの献げ物となってくださったから、私たちにキリストの香りを放つ務めが与えられた。しかし、その務めは神の憐れみによって任じられている(2コリ4:1)。私たちは肉の力によって、その務めを果たすことはできない。肉をキリストの十字架の上に始末し、内にキリストにお住みいただく。先に献げ物となってくださったキリストは、私たちの内に住み、私たちの内から働いてくださる。私たちは内住の主の力によって務めを果たすことができる(出29:42-46)。

しかし、私たちはこの務めを無駄にすることもできる。17節に「混ぜ物をして売」るという表現がある。同節の続きを逆にしてみるとわかりやすい。すなわち、①不誠実で、②神から遣われておらず、③神の御前には歩まず、キリストにもよらない歩みのことである。与えられた務めを無駄にし続け、救われていると言いながら、神を信じようとも、神に従おうともせず、神を侮り続けるとするなら、私たちは、神の福音に混ぜ物をして売っていることになる。イエスが語った例え話に、タラントの話(マタ25:14-30)とミナの話(ルカ19:12-27)がある。どちらも、主人が資産をしもべたちに分けて預ける展開だが、その資産を活かさず、何も生み出さなかったしもべが登場する。タラントの方では、地面に穴を掘り隠し、ミナの方では、布に包んでしまってしまう。そして、どちらのしもべも、自分の主人のことを冷酷非道だと評価し、主人の心を理解できていない。私たちも神の御心がわからないと、せっかく預けていただいた務めを無駄にすることになる。

私たちはこの神から与えられた務めに対して、どう向き合っているか。キリストの香りを放つことができているか。神は忠実に務めを果たそうとする者を求めておられる(1コリ4:1,2)。