礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.03.21

われ罪人のかしらなれど

Ⅰテモテ1:12-17

本書は、パウロの牧会書簡の一つだ。テモテはエペソ教会の青年牧師だったが、若さと未熟のために牧会上困難を覚えがちだった。パウロは、ネロ皇帝の迫害下で殉教の死を遂げるが、その直前に愛弟子テモテに手紙を書き、牧会上の原則をしたためた。

テモテはパウロにとって信仰による霊の子だった(2節)。パウロと出会った時、彼はすでにクリスチャンだった。彼は祖母ロイス、母ユニケから信仰を受け継いでいたのだ(2テモテ1:5)。彼がパウロから霊の子とみなされたのは、彼がパウロから本物の信仰を学んだからだ。

そんなテモテが、エペソ教会に派遣された。しかし彼は、すぐに教会員たちが形式的な律法主義に惑わされているという問題に直面した(3,4節)。この問題に対する厳しい戦いの中で、ともすると彼は意気阻喪(そそう)したが、その彼を支えたのは、パウロから学んだ本物の信仰、イエス・キリストに対する信仰、純粋な福音に対する信仰だった。パウロはテモテを「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」(5節)から、愛をもって諭した。

「祝福に満ちた神の、栄光の福音」(11節)とは、注目すべき言葉だ。キリストの十字架と復活の福音は、私たちを救い、潔め、栄光の希望に輝かせる、祝福に満ちた神の栄光の福音であり、パウロはこの福音を神から委ねられていた。

パウロは、はじめからこの福音を知っていたのではない。むしろ以前の彼は、神を冒瀆する者であり、暴力をふるう者であり(13節)、熱心な教会の迫害者だった(ピリピ3:6)。しかしそれは、ただ無知ゆえの所業だった。だから彼は神の憐れみを受け、キリストの救いを頂き、内から造り変えられ、主から忠実な者と認められて、福音宣教の務めに任じられたのだ(12節)。

彼は「私はその罪人のかしらです」(15節)と言う。これは決して誇張ではなく、パウロの本音だった。彼はれっきとしたユダヤ人であり、ベニヤミン部族の出身であり、律法によって義とされるとするなら非の打ちどころのない優等生だった(ピリピ3:5,6)。しかし、主がご覧になるのは、身分や出身や功績ではなく、内側だった。いくら無知のゆえとは言え、彼はキリストに逆らう者、十字架の贖いを踏みにじる者だった。だから、ほかの誰よりも罪深い者だという自覚があった。そんな罪人のかしらを救うために、キリストは来られ、十字架にかかられたという認識が、パウロには人一倍強かった。

パウロだけのことではない。私たちも自分こそ罪人のかしらであるという自覚が必要だ。心のどこかに、“あの人よりはましだ”という高ぶりがあってはならない。

ジョン・ウェスレーは死の間際に“われ罪人のかしらなれど、キリストわがために死にたまえり”と語ったと言われている。この告白は私たちがいつも持っていたい。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という御言葉の出典は不明だが、これは聖書全体のメッセージだ。罪なき神の御子キリストが、私たちを罪から救うために、十字架にかかることを目的として世に来られた、という事実は、私たちすべての者に与えられている福音であり、そのまま受け入れるに値するものだ。削減も追加も不要であり、割引も水増しもしてはならない(申命記4:2、黙示録22:18,19)。十字架のメッセージは、理屈で理解できるものではなく、信仰でそのまま素直に受け入れるなら、神の力として私たちを内から新しくする(1コリント1:18)。罪人のかしらたる私たちを確実に救い、潔めるグッド・ニュースだ。

この福音の恵みに与れば、この福音を伝えずにはおれない。私たちも福音の使者に召されているのだから、恵みによって責任を果たしたい。