礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.01.03

大いなる希望

Ⅱペテロ3:1-18

本書のテーマは、恩寵と知識への成長だ(18節文語)。魂が進んでいくと、神の御心、ご計画が分かってくる。神は私たちに幸いな計画をもっておられる(エレ29:11)。しかし、神の計画には厳しい面もある。世の終わりが近づいているという事実があるのだ。

終末が近いことは、旧約から預言されていたが、新約になって一層緊迫感をもって叫ばれるようになった。それは、初代教会の熱い再臨信仰から来るものだった。しかし、侮る人々もいた。偽使徒、偽教師、偽預言者たちは再臨を否定したり歪曲したりした。本書の目的は、偽者に惑わされずに正しい信仰に立たせることだった。

ペテロは、預言者たちの言葉と、救い主の戒めを想起させようとする(1,2節)。偽教師たちは“どこも変わっていない”と主張した(3,4節)。もっともらしい主張だが、御言葉への信仰は皆無だった。

ノアの洪水の時も同じだった。人々はいつものように飲み食いしていた。ノアの勧告を嘲笑し侮蔑した。しかし神の御言葉どおり、大雨が降り続き、洪水が起こった。ノアと家族以外の人類は滅亡した(5,6節)。同じように、世の終わりも必ず来る。神は水によっては滅ぼさないと誓われたが(創9:11)、世の終わりは火によって到来する(7,10節)。その光景は想像するだけでも恐ろしい。

しかし、救われた私たちには希望がある(13節)。やがて神が住まわれる都が現わされる(黙21:1-4)。神ご自身が人と共に住まわれ、もはや涙も死も悲しみも叫びも痛みもない新天新地だ。そこには神が共に在すことによる喜びだけがあり、神の御心だけが行われる。このような新天新地を私たちは待望している。

だから、私たちは「聖なる敬虔な生き方をしなければならない」(11節)。「敬虔な生き方」とは、神がわが内に在すという、キリスト内住の信仰で生きることだ。救われてもまだ神に喜ばれない古い自分が十字架で死んで、キリストが内に住み給うという信仰によって生きることだ。

キリストは私たちのために十字架で死なれ、私たちに罪と滅びからの救いをお与えになった。さらに、血潮によってあらゆる汚れからの聖潔(きよめ)を与えてくださる。罪赦された者にしてくださるのみならず、神のご性質にあずかる者にしてくださる(1:4)。この恵みをいただいて、私たちは真の意味で神の日を待ち望むことができる。

再臨と聖潔(きよめ)は不可分だ。聖潔の信仰に立ってこそ、再臨の希望がある。主がごらんになるのは外側ではなく内側だ。まずこのままでは主の前に立てないと、認めるところから始まる。そこから渇いて求めれば、必ず主は導き給う。そのためにキリストは十字架に血潮を流された。

私たちが聖くされることは神の命令であり(1ペテ1:16、レビ11:44,45、同19:2)、また神の約束であり(1テサ5:24,23)、神の切なる願いだ(1テサ4:3a)。

主イエスは必ず再臨し給う。その日は確実に近づいている(10節)。御言葉を侮ってはならない。神は、その日の到来をいたずらに延期されているのではない。一人も滅びることなく、全ての者が救われるようにと忍耐しておられるのだ(9節)。

神が願っておられるのは、私たち贖われた者が全き救いに与って、再臨の主に会い、やがて現わされる新天新地に入れるようになることだ。これは神の願いであると同時に、私たちにとって大いなる希望だ。この望みに向かって進んで行きたい。そして、滅びゆく多くの魂の救いを祈って、証ししていく者になりたい。神の忍耐は、私たちがそういう者になるためのものでもある。