礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.10.25

大いなるリバイバルの幻

エゼキエル37:1-10

イスラエルは背信の罪のために、裁きとして異国の地バビロンに捕囚となった。しかし、神の憐れみにより、エレミヤを通して新しい契約が示された(エレ31:31-33)。主がペルシア王キュロスの心を動かされて、民は70年の後に解放された。

本書も回復のメッセージだ。特に33章以下にリバイバルの預言が語られている。エゼキエルは、捕囚の民を御言葉をもって激励した。彼は本章で枯骨(ここつ)の谷の幻を見せられている。

エゼキエルは聖霊に満たされて、主のもとから出て行って幻を見た(1節)。彼は、谷に満ちるほどの非常に多くの、いのちのない、干からびた古い骨の幻を見た。これは、捕囚のために魂が渇き、枯れ果てたイスラエルの全家の姿だった(11節)。そしてこれは、罪を犯して滅びゆく者になり果てた私たちの姿でもある。

主はエゼキエルに、これらの骨が生き返ることができるかと問われた(3節)。これは主の熱い思い、主の呻(うめ)きだ。主は彼に、骨に預言するよう命じられた(4節)。枯れ骨にメッセージを語れと言われるのだ。彼は命令どおり、枯れ骨に預言した。信じて従うところに神の業が現わされた。骨と骨がつながり、筋、肉、皮膚が生じ、人間になったのだ。御言葉には、干からびた骨をつながらせ、筋、肉、皮膚を与えて生かす力があった。

けれども、まだ息がなかった(8節)。生きた人間になったが、まだ活発に自由に動けないのだ。再びエゼキエルに、息に預言せよとの命令が下った(9節)。神の霊にメッセージを語れという驚くべき命令だ。この恐れ多いと思われる命令にも、彼は従った。彼が息に預言すると、生きた人間に息が入り、立ち上がり、大いなる集団になった。ただの群衆ではなく、神のためにいのちをかけて戦う主の精兵になったのだ。

この記事から、第一に贖いの二重性を教えられる。骨が人間になるとは、救いの恵みを表す。罪を犯したままの魂は、干からびた骨のようなものだ。しかし御言葉(=十字架の言葉)によって魂は罪から解放され、救われる。

しかし、罪が赦されただけでは、まだ真のいのちがない。自分のためには働くことができても、主のために喜んで働けない。そんな自我の塊のような魂も、神の息が吹き入れられて、主のために生きる者、主のために戦える者になる(2コリ5:14b,15)。自我を十字架につけて始末し、キリスト内住の恵みをいただいて、生きた精兵になる。しかも一人ではない。主のために戦える大いなる集団になる。それが教会だ。

「誰かその生命をかけて我に近づくものあらんや」(エレ30:21文)と主は言われる。主が私たちを、いのちをかけて主に近づく者にしてくださる。これは主の約束だ。自分が枯れ骨だ、いのちのない者だと認めて主の前へ出て行こう。

第二に私たちの使命を教えられる。私たちは、自分の周りに枯れ骨を見ることができるか。魂への重荷があるか。主は私たちに預言せよ、メッセージを伝えよと言われる。祈っても、語っても、一向に魂が砕かれないというような現状があるかもしれない。けれども、主を信じ、御言葉の真実、御言葉の力を信じよう。御言葉には魂を生かす力があるのだ(ヤコ1:21)。十字架の言葉の力によって、魂は息を吹き返す。

神は、重荷をもって祈っている魂に、大いなるリバイバルの幻を見せてくださる。教会から一歩出れば、そこが枯骨の谷だ。この終わりの時代、重荷をもって出て行かせていただきたい。リバイバルは神のみわざだ。それが起こされるためには、私たちの信仰が求められる。