礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.10.18

ふさわしい者たち

ヨハネの黙示録3:1-6

ヨハネの黙示録は、使徒ヨハネが幻の内にお出会いしたキリストから示された啓示の書である。その冒頭には7つの教会に宛てたメッセージが収められている。その当時、地中海沿岸に実在した教会に向けて、それぞれの教会や地域や人々の特徴と結びつけながら、信仰を励まし、戒め、立て直すメッセージが語られている。そして、ひいては、現代に生きる私たちに向けられたメッセージでもある。

サルディスの教会が建てられていたサルディスの街は、現代のトルコ西部に位置していた都市で、リュディア王国時代には首都として栄え、ペルシア・ローマ支配時代にも巨大な貿易都市として繁栄を謳歌した。中心的な産業は、毛織物業、染色業、採金業である。また、主要な街道に面した立地環境から、市街地には賑やかなマーケットがあった。ギュムナシオン(競技者の訓練場)と公衆浴場の複合施設も建てられ、人々は心身を鍛え、入浴で健康を維持していた。

これらの特徴から、今日の箇所に、衣のこと(4,5節)、盗難のこと(3節)、競技のこと(5節)、療養のこと(2節)が引き合いに出されているのは合点が行く。紀元17年には大地震が起こり、街は経済的な大損害を被った。いつ来るかわからない盗人とは、自然災害を連想させる表現かもしれない。また、一大コロニーを形成していたユダヤ人たちが、その復興のために巨額の援助金を出した。その結果、街中にシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)が増築され、彼らの政治的、社会的な立場が大幅に向上した。教会の中でもその影響は大きく、様々な点でキリスト教とユダヤ教の融合が生じていった。生きているようで、実は死んでいる(1節)とは、ユダヤ教的なものと妥協し、キリストへの信仰が薄まってしまった教会の実情を指しているように思われる。

さて、これらのサルディスの街と教会の様相は、そのまま現代の私たちを取り巻く世の中や、私たちが注視しなくてはならない事態につながるのではないか。目覚ましい発展を続ける現代テクノロジーの恩恵に与ること、上手な家計のやりくりに夢中になること、自己啓発や健康志向や美容を追い求めることなど、様々な“充実した生き方”をちらつかせて、世は私たちの目を引こうとしてくる。ともすると、教会の中にまで世の力、世の価値観、世の感覚、つまり、私たちの主への信仰を薄めて、世と妥協させるものが入ってこようとする。

しかし、クリスチャンはふさわしく生きるべきである。すなわち、①目を覚ましていること(2節)、②福音の真理に立ち続けること(3節)、③白い衣を着せていただくこと(5節)である。

①目を覚ましているとは、罪のために滅びゆく自らの魂の行く末に気がつき、キリストの十字架のもとで罪を赦していただき、救いをいただくことである。はっきりと救いをいただいた者は、目を覚ました者、もはや世に目を眩まされない者として歩み始めることができる。

②このキリストの救いを失うことなく、主を信じる者として歩み続けることである。サタンは世のほうを大きく見せ、私たちが救いから逸れて世に戻るように仕向けてくる(1ペテ5:8, 2コリ2:11)。だから、私たちは絶えずキリストの救いを「どのように受け、聞いたのかを思い起こし、それを守り、悔い改め」(3節)る必要がある(コロ1:5,6)。

③内にキリストをいただくことである(黙7:9,13-17)。はっきりと救いをいただいた者は必ず、自らの真相に突き当たる。この己を十字架につけて始末した者の内に、主が住んでくださる。まさに勝利を得る者となり(5節)、主とともに歩む者となる(4節)。「ふさわしい」(4節)には“軸”に関係した言葉が使われている。ふさわしい者とは、まさにキリストを軸として歩む者のことである(コロ2:6)。

私たちも、目を覚まし、福音の真理を保っていきたい。そして、キリストを軸として、キリストと共に歩む者とならせていただきたい。