礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.09.20

この山を我に与えよ

ヨシュア14:6-15

ここに登場するエフンネの子カレブは、決して派手ではないが、素晴らしい信仰を主にささげた人だ。

彼は、カデシュ・バルネアでモーセの命令を受けてカナンを探った十二人の偵察隊の一人だった(民13:,14:)。カナンは豊かな土地だったが、十人の偵察隊員の不信仰の報告によって、民はみな不信仰になった。ヨシュアとカレブは信仰に立って進撃を勧めたが、多数の不信仰の声が勝ち、その結果、民は40年の荒野の旅を経ることになった。

モーセの後を継いだヨシュアは、ヨルダン川を渡ってカナンに侵入し、土地を占領し分割したが、偵察した時に20歳以上だった者で、カナンに入国したのはヨシュアとカレブだけで、他はみな荒野で屍(しかばね)をさらした。不信仰への神の報いだった。厳粛だ。

 

1.カレブに対する神の祝福は、第一に長寿だ。85歳は当時としては長寿で、神の祝福だった。第二に健康と力だ。カナンに派遣された40歳の時と同じ健康が、今も保たれていた。しかも、どんな働き、戦いにも堪え得る力にみなぎっていた。体力だけでなく、意志の力もそのままだったのだ。第三にビジョンだ。「この山地を、私に与えてください」(12節)と求めた。アナク人もおり、町は大きく堅固で、困難な山地だが、彼には確信があった。

 

2.祝福の秘訣の第一は信仰だ。「主が私とともにいてくだされば」(12節)とは、臨在信仰だ。偵察から帰ったときもこの信仰で復命した(民13:30,14:6-9)。神が味方なら、誰も敵し得ない(ロマ8:31)と信じる信仰に立っていた。今、同じ信仰でアナク人を追い出すと言うのだ。臨在信仰こそ祝福の秘訣だ。古き人をキリストと共に十字架につけて始末し、キリスト内住の信仰に立つのだ。

ただし、その前に十字架による罪の赦しと義認がはっきさせねばならない。神に背を向けていた罪を認め(詩51:3-5)、神の前に悔い改め(同17)、キリストの十字架を信じて罪が赦される恵み(1ヨハ1:9、マタ9:2)をまず確かに頂こう。そこから、御言葉の光に照らされて、救われてもまだ神に喜ばれない自我に気づかされる。そのままでは嫌だと思い、十字架で己に死ぬという体験を経て、キリストが内に生きておられるという信仰へと開かれる。そこで臨在信仰が明瞭になるのだ。

 

祝福の秘訣の第二は服従だ。彼は「私は、私の神、主に従い通しました」(8節)と言う。ひとかけらの不服従もない、100%の服従だ。しかも自分でそう言うだけではない。主ご自身が証言しされる(民14:24)。神への服従の人の模範は、もちろんキリストだ。キリストは、神と等しいお方であられたが、十字架の死に至るまで従順に歩まれた(ピリ2:6-8)。このキリストの心をわが心としたい(同2:5)。努力や修行ではできない。主の内住によって初めて可能だ。臨在信仰と全き服従であって、これこそ神がご覧になるものだ。

 

「私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです」(11節)とは、何と力強い言葉か。私たちの回りにも様々な戦いがある。絡み付く罪との戦い、試練との戦い、一人で証しを立てていく戦い、救霊の戦い…。どんな戦いにも堪え得る者でありたい。自信などではない。信仰だ。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリ4:13)という信仰だ。我を内から強めてくださる内住のキリストによって、万事が可能なのだ。この信仰と全き服従をもって前進しよう。「この山を我に与えよ」と、主のビジョンを求めて進もう。