礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.08.30

救いの泉から水を汲む

イザヤ12:1-6

本書は大きく39章までと40章以下に二分され、前半にはおもにさばきのメッセージ、後半には回復のメッセージが述べられている。

ソロモン以後、イスラエルは南北朝に分裂し、北王国は前721年にアッシリヤ帝国によって滅亡し、南王国は前586年に新バビロニア帝国によって滅亡した。不信仰、背信の罪の報いだった。いずれも捕囚の民となり、雑婚が強いられ、民の中に異教が混入した。神の選びの民たるを誇る彼らには耐え難い屈辱だった。彼らはそこで自分たちの背信の罪を認め、悔い改めた。

そんな彼らを神は決して見捨てず、捕囚の民に回復の預言を語られ、弱り果てた魂に励ましを与えられた。

この12章は本書の前半部分だが、ここにも回復のメッセージがある。「その日」(1節)とは裁きの日の意味と、回復の日の意味がある。御言葉によって罪が指摘され、諭され、憐れみによって赦され、回復させられる。一度お怒りになった主が、慰めてくださるから、「主よ、感謝します…」と感謝の言葉を述べることができる。神は民の不信仰・不従順を赦し、豊かに回復してくださるのだ。

ただし、そこには民の悔い改めがあった。神は寛容のゆえに赦されるのではなく、こちらの側の心から徹底して悔い改める魂を見て、赦し、回復してくださるのだ(詩51:17)。

「神は私の救い」(2節)とある。神は真実に悔い改める魂を赦し、潔めてくださる。神は私たちに救いと聖潔の全き贖いを与えてくださる。真実に救ってくださる主に私たちが信頼していけば、私たちに何も恐れるものはない。

「主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」(2節)と、「私」が3回出て来る。信仰は神と私の関係だ。あなたはどうかの問題だ。「私のために救いと…」(同)とあるが、自己中心で言うのではない。主はこの私を救い、潔めるために十字架にかかられた。神の救いは十把一からげではなく、一人ひとりに与えられる。あなたは主の目に高価で尊い存在だ(イザ43:4a)。贖いがあったからだ(同4b、イザ43:1c)。

「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」(3節)とは、イエスの十字架による全き救いを表す。十字架の救いの泉がいかに深いかを知るべきだ。

「喜びながら」とあるが、軽々しい思いで泉には近づけない。罪の重さに苦しみもし、悔い改めの重圧に悶えもするだろう。しかし、一度泉から水を汲み上げたら、あとは喜びに満たされる。泉の水の味わいを知るからだ。罪の赦しの恵みの味わいを知り、さらには自我からの解放とキリスト内住の恵みの味わいを知るからだ。一度汲んだら、汲み続けるのだ。喜びながら主に従い続けていくのだ。

そして「その日」終わりの日を迎えられる。終わりの日に喜びをもって(4節)、高らかに主を賛美する。贖いの恵み、傷なき者として主の前に立てることを感謝するのだ。

ただ、その前に私たちの為すべきことは、「そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ」とある通り、主の救いのみわざを全地に知らせていくことだ(ロマ10:14,15)。「主はすばらしいことをされた」(5節)とは、全き救いのみわざのことであり、またリバイバルのみわざのことだ。主のみわざを告げ知らせることは、主のみわざを体験した者の責任であり、もし黙っているなら主から責任を問われることになろう。

「シオンに住む者」(6節)とは、主のみわざを見た神の民のことだ。「イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる…」(同)。主は私たちのただ中におられる(ゼパ3:17a)。この私の内に住んでくださる主を仰いで進んで行こう。

救いの泉から水を汲もう。汲み続けよう。内にキリストをいただいて、終わりの日に喜びをもって立てる者とされよう。