礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.04.26

神の所有とされる恵み

イザヤ43:1-13

本書、とくに40章以下には、主の恵みに満ちた、慰めの御言葉が多い。イスラエルは南北朝に分裂し、北王国はアッシリアにより紀元前722年に、南王国はバビロニアにより紀元前586年に滅亡した。南のユダ王国のエルサレム市民は70年間、バビロン捕囚となった。不信仰、背信の罪の報いだ。

惨めな捕囚生活の中で、彼らは罪を認め、悔い改めた。そういう彼らを神は決して見捨てず、回復の預言を与え、弱り果てた魂に励ましを与えられた。40章から慰めの御言葉が多いのは、回復・慰めのメッセージが始まっていくからだ。

その中でも本章には、贖いの恵みの素晴らしさが述べられている。ユダヤの民の総称として「ヤコブよ…」「イスラエルよ…」(1節)と呼びかけられているが、我らのことと考えてよい。我らは神によって、神のかたちに創造された(創1:27)。神と交わることができる存在として、つまり神の御言葉を聞き、御顔を拝し、応答できる者として造られたのだ。裸を恥ずかしいと思わない、つまり神の前に恥じることなく出られる者だった。

しかし罪を犯した。神の命令に従わず、木の実を食べた。神のかたちは破壊され、御前から隠れなければならない者になった。裸を恥と思い、そのままでは出られない者になった。

そんな我らを神は見捨てられなかった。御子キリストを送り(ヨハ3:16)、十字架にかけられた。キリストは「わが神、わが神…」と叫ばれた。捨てられるはずのない神の子が、父からさえも捨てられたのは、捨てられるべき罪人の我らが捨てられないためだった(2コリ5:21)。価値も資格もない我らは、ただ神の恵みにより(ロマ3:24)、十字架への信仰のゆえに救われる。

悔い改めと信仰を通らずに明確な救いはない。まず、救いの恵みをいただきたい。認罪-悔い改め-十字架信仰を曖昧(あいまい)にして、救いが不明確なクリスチャンになってはならない。

こうして神は、ひとたび神によって創造されたにもかかわらず、罪によって神のかたちが破壊された我らを、キリストの十字架によってもう一度創造し直された。我らをご自分の所有とするためだ。

しかし、救われただけでは、まだ神のものとなっていない。わがままで、自分が一番かわいく、従いますと言いつつ従わない者で、その時の調子によって上がったり下がったりという情けない者だ。魂のど底に住みついている自我、古き人、肉のためだ。そのままで神が満足されるはずがない。使徒パウロはその自分の醜い姿を直視し(ロマ7:15,17)、絶望の叫びを上げ(同24)、キリストの十字架を仰いだ(ガラ2:19,20)。

我らも、そこを通って、キリストが内に生きてくださるという信仰に立ちたい。この恵みを頂くとき、主から「汝は我ものなり」と言っていただき、主に所有された者になる。

神の所有とされた者は、①神に愛せられる者になる(4節、ヨハ14:21)。②神の証人として遣わされる(10節、使徒1:8)。③困難に負けない(2節、ロマ8:31,37)。そのような魂になりたい。我らが神の所有とされることは、誰よりも神が切望される。そのための十字架、血潮だった。神が実現してくださる(13節文語)。信じて渇望しよう。

終末の近いことがいよいよ痛感させられる今の時代にあって、恵みを確かに頂いて、備えをしたい。