礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.09.01

新しい契約の民

エレミヤ31:23-40

エレミヤの時代はイスラエルの歴史上、最暗黒だった。北イスラエル王国は紀元前721年にアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前586年に新バビロニア帝国により滅亡し、エルサレム市民はバビロン捕囚となった。

祭司の子エレミヤは、主の召しを受けて(1章)預言者となり、捕囚前から捕囚中に及んで活動した。彼は捕囚の民と共にバビロンに下り、民の罪を指摘し、悔い改めを迫り、また回復を預言した。彼のストレートな預言は民に受け入れられず、かえって迫害された。しかし、彼は涙を流しながらも、神の言葉を語り続けた。

26章からはおもに回復のメッセージが語られている。とくに31章は、偶像礼拝の罪のために、神のさばきとして捕囚の憂き目にあっている民に、永遠にして真実の神の愛が示され(3節)、31-34節には新しい契約が表されている。

ここに示された新契約は、出エジプトの時に与えられた古い契約(十戒)のようなものではない(32節)。イスラエルの民のために与えられた古い契約は、民自らの手によって破られた。もはや彼らは滅びるしかなかった。

しかし、真実な神は、彼らが滅びるのを手をこまねいて見ていることはできなかった。神は、捕囚の苦難のただ中で、エレミヤを通して彼らに新契約を提示された。それは、神の律法を彼らの心に書き記し、神が彼らの神に、彼らが神の民になるというものだった(33節)。

旧契約では律法は石の板に刻まれたが、新契約では民の心に刻まれるという。これは驚くべき新約の恵みの予表だ。これこそ、キリストがわが内に住まわれるという聖潔(きよめ)の恵みだ。

我らは、神の前に一人残らず罪人だ(ロマ3:10)。神の律法を行うことができず、滅ぶべき者だ(ロマ6:23a)。しかし愛なる神は、そのような我らを憐れまれ、独り子キリストをこの世に送り、十字架におかけになった(ヨハ3:16、ロマ5:8)。罪なき神の子キリストは、我らの身代わりに十字架で血を流して死なれた。我らが罪を悔い改め、十字架を信じれば、すべての罪から救われる。まずこの罪の赦しの救いをいただきたい。

明確に罪が赦された魂は、必ずやがて自己の真相に直面する。救われたのにまだ人を愛せない、赦せない、いつも人の目を気にし、人の顔色を伺いながらの歩みだ。そのような不真実な己の姿に気がついたら、そこから御言葉に従っていけば、必ず十字架のさらに深い意味に開かれる。古き人がキリストと共につけられているという十字架が示され(ロマ6:11)、なお待ち望むなら、キリストが我が内に住まわれるという恵みを、信仰によって受け取るのだ(ガラ2:19b,20a)。この信仰で生きる者となったら、我らは真の意味で神の民になる。

それまでも、キリストの十字架で救われた我らは神の民だった。しかし、荒野をさまようイスラエルの民と同様、不信仰とつぶやきの連続の歩みだ(出14:11,12、16:2,3、17:2,3、32:1-6)。神はそのような我らを、新しい契約の中に入れて、真の神の民としたいと願い給う。

神の民とされたらどうなるか。主を知る者になる(34節)。主の御心を深く知り、自分の心にする者になる。主の御心とは、まず父なる神への徹底的な従順だ(ピリ2:6-8)。次に、すべての者が救われてほしいという救霊愛だ(1テモ2:4、2ペテ3:9)。キリストのごとく神の御心に従順に従う者、また使徒のごとく大胆に福音を証ししていく者になりたい。

我らは、新しい契約の民として贖われている。キリストはそのために血を流された(マタ26:27)。意志を働かせて御言葉に従い、信仰をもってこの恵みを自分のものにしたい。世の終わりは近づいている。新しい契約の民とされて、主の前に立てる備えをしたい。