礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.08.25

主にのみ仕えよ

マタイ4:1-11

主イエスが公生涯に入られるに際し、通らねばならない所は、まずヨルダン川だった。主はそこでヨハネから受洗された。そのとき天が開け、聖霊が下り、天からの御声があった(3:16,17)。これはイエスの戴冠式だった。ルカは「祈っておられると、天が開け」と記している(ルカ3:21)。

もう一つは荒野だった。主はそこでサタンの誘惑を受けられた。主はこれから、サタンの支配する邪悪な世に出ていかねばならない。だから、ここで勝利しておく必要があった。

主はサタンから三つの誘惑を受けられた。

1.石をパンに変えよという誘惑
主は40日間断食され、空腹になられたところにサタンが来た。サタンは一番弱いところを撃ってくる。「あなたが神の子なら…」は“あなたは神の子なのだから…”という意味だ。彼はイエスが神の子と知っていた。“神の子なのだから、自分の食べ物ぐらい自分ですればいいでは…”と言ってきたのだ。つまり神への絶対信頼を半減させようとしてきたのだ。

しかし、主は御言葉で反撃された。「人はパンだけで生きるのではなく…」と申命記(8:3)の御言葉で対抗された。主はいつも御言葉に従っておられた。人が真の意味で生きる原動力を知っておられたのだ。

2.神殿から飛び降りよという誘惑
サタンが使った御言葉は、詩篇91篇11,12節だ。彼も御言葉を使う。いや、我らよりも御言葉をよく知っているかもしれない。我らが御言葉に精通していなければ、サタンに太刀打ちできない。

彼は“一気にスターになれる。十字架にかからなくても王になれる”と、主の功名心をくすぐってきた。サタンのもくろみは十字架を否定、または不明瞭にすることだ。しかし、主はやはり申命記(6:16)の御言葉で反撃された。申命記は神の御心である律法の中心だ。確かに御使いは主を支えるだろうが、試みようというのは動機が不純だ。主はいつも動機を見給う。

3.サタンを拝めという誘惑
彼はついに本性を暴露した。ここに至っては、神への反逆でしかない。主は即座に「下がれ、サタン」と一喝された。サタンだと分かったら少しでも耳を貸してはならない。主は「主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ仕え奉るべし」(10文語)と、やはり申命記(6:13)の御言葉で対抗された。神への全面的・絶対的信頼だ。

神への信頼による主の勝利だった。主に依り頼んでいけば、我らも必ず勝利できる。主は我らの罪のために十字架にかかられた。そこまで愛してくださった主を、我らも心から信じ、主にだけ仕えたい。

二つのことを教えられる。

まず、神への礼拝の真実性だ。我らの礼拝は真実か、霊とまことによって礼拝しているか、聞いているようで心は別のほうを向いているという不真実な礼拝になっていないかをさぐられる。主は我らの内側をご存じだ(詩139:1-6、51:17、1サム15:22)。

次に、神への愛の純粋性だ。我らの内に、神に対する以上に愛を注いでいるものがないか(ルカ14:26)。突き詰めれば自分が一番可愛いという自我、肉だ。その古き人が十字架で死んで、キリスト内住の信仰で生きる者とされるなら、解決がつく。主がいかに父なる神を愛しておられたかは、その従順な歩みが証明する。愛せずしては従えない。愛ゆえの従順だ。

主にのみ仕えよう。わが内に偶像はないか。私を愛して私のためにご自身をお捨てになった神の子イエスに、まごころから仕えよう。