礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.03.10

キリストの尊い血によって

1ペテロ1:13-25

本書の受取人は、迫害のために各地に散らされたクリスチャンたちだ(1節)。彼らは散らされてもなお困難を覚え、その中で信仰を守り続けていたが、ともすると失望し、挫折し、棄教しようとする者も出てきた。そこでペテロは手紙を書き、彼らは回覧して読み、励ましと慰めを受けた。

彼らは、キリストの血による贖いの恵みの深さを示されることによって励まされ、慰められた。この恵みの深さは、本書を通して教えられる。そして、今日の我らも励ましが与えられる。

我らが選ばれた目的は、御霊の聖めによりキリストに従う者となることだ(2節)。そのためには、キリストの血の注ぎかけを受けねばならない。ここにキリストの血の力、血による贖いの深さがある。その力は、我らを先祖伝来の空虚な生き方から贖い出す力だ(18,19節)。贖いとは、奴隷状態からの解放のことで、新生と聖潔(きよめ)を意味する。

1.キリストの血は我らを新しく生まれさせる

3~12節には、新生したクリスチャンの特性が記されている。①生ける望み(3節)。②朽ちず汚れず消えて行かない天の資産(4節)。③神の御力による守り(5節)。④試練の中での喜び(6節)。⑤精錬された、実験済みの信仰(7節)だ。

罪を認めて悔い改め、十字架を信じて、真に新しく生まれた魂は、そこを歩むことができる。我らはまず、明確に救われ、新生した魂になりたい。罪の赦しを得て義と認められ、主の前に義しい立場が与えられた者になりたい。我らが渇きをもって求めていくなら、キリストの血が我らをそのようにする。

我らはキリストを見たことはないが、キリストを愛している(8節)。そして、信仰によって輝きに満ちた喜びに溢れている。魂の救いを得ているからだ(9節)。これが新生したクリスチャンだ。この救いは、預言者が尋ね求めたものだったが、見い出せず、御使いらも羨望するほどのものだったが、得られなかった。罪を赦された人間にしか味わえない恵みだからだ。

2.キリストの血は我らに御霊による聖潔を与える

新しく生まれたクリスチャンは、語られるメッセージの光に照らされれば、救われてもまだ神に喜ばれない己れがあることに気づく。神の御心に従えない自分、主を愛すると言いながら実は自分が一番可愛いという自分だ。まさに神に対する敵対性だ。「先祖伝来の虚しい生き方」(18節)とはこれにほかならない。

神の前に頭の先からつま先まで真っ黒な自分、こんな汚い自分だったか、と愕然とする。人はごまかせても神はごまかせない。何によっても聖められない。もう絶望するしかない。そこからキリストの十字架のさらに深い恵みへ進む。

キリストの十字架に汚れた己れが共につけられて死んでいると、信仰によって決算した魂(ガラ5:24)に、復活のキリストが内住し給う(ガラ2:19b,20a)。キリストの死と復活に合わせられるという、信仰による体験だ(ピリ3:10,11)。そして、我らは神の所有にされる(イザ43:1)。

そうされた魂は、神の御心に従順な者になる。キリストがそうであったように、徹底的に従順な者になる。これが御霊の潔めにより従順な者になることだ。キリストの血による贖いとは、ここまで為す全き贖いだ。「われ聖なれば、汝らも聖なるべし」(16節文、レビ11:45,19:2)とは、命令かつ約束だ。キリストの血が尊い血(19節)と言われるゆえんは、我らに全き救いを約束する血だからだ。

血による贖いを確実に得たい。先祖伝来の虚しい生き方からきれいに贖われたか。救われる以前の生活を懐かしんだり、荒野の生活に安住したりしてはいないか。キリストの血は、今も我らのために流されている。

約束を信じて御言葉に従おう。御言葉は朽ちない種であり、変わることなき生ける御言葉だ(23節)。今も我らに生きて働く神の言葉に信じて従おう。