礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.05.20

聖霊の約束の成就

使徒2:14-47

ペンテコステの日に約束の聖霊が降られた。イエスが与えられた約束の実現だった。しかし、聖霊降臨は、実はもっと以前からの約束だった。ヨエルが預言していた(ヨエ2:28-32)。

聖霊は、待ち望んでいた人々に、超自然的な現象を伴って降られた。彼らは、他国の言葉で神を賛美した。周囲の人々は驚き、一部の者たちは、新しい酒で酔っているのだと侮蔑した。その時、ペテロが立ち上がった。あの弱くて臆しやすかったペテロが、約束通り力を受けて(1:8)、恐れず大胆に、力強く語りだしたのだ。

彼は、この出来事はヨエルの預言の成就だと語った。「神は言われる。終りの日に…」(17節)と彼はヨエル書を引用するが、「終りの日」は預言書では「その後」だ。預言書では、それまで終末の裁きと回復のメッセージが述べられていた。その後だから、世の終わりということになる。

「我が霊を凡ての人に注がん」(17節文語)とは神の確かな約束だ。今は終わりの時だ。今のこの世は必ず滅びる(19節、2ペテ3:8-13)。救われた者にとっては、喜びと希望の時だが、救いを拒み続けた者には、恐ろしい滅びの時だ。

ヨエルの時代は紀元前800年代、ユダのヨアシュ王の治世だが、この時から終わりの時の預言がされていた。その成就が紀元1世紀のペンテコステだった。終わりの時に突入して既に2000年近くたっている。あの時が終わりの時の始まりなら、今は最終段階だ。偽キリストの出現、戦争、大地震、愛の冷却など、その兆候は既に現れてきている。いつ終わりが来てもおかしくない。

終わりの備えはできているか。私たちのなすべき備えとは何か。

1.自らの魂の備えだ。

まず救いの確信があるか。洗礼を受けているか否か、信仰年限が長いか短いか、奉仕を多くしているかどうかではない。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、罪が赦されたという明確な体験があるかどうか、かつ、救われた者として日々信仰の確信にあふれて生きているかどうかだ。

さらに聖潔(きよめ)の恵みにあずかったか。あるいは真剣に聖潔を求めているか。十字架において己に死に、聖霊によってキリスト内住の恵みをいただいたか。これは、自我の醜さをどれだけ深く知ったかにかかっている。そこが不徹底なら恵みも不確かだ。主は「我が霊を注がん」と約束された。徹底して自己に絶望した魂に、神は十字架を通して聖霊を注ぎ給う。神の約束は真実だ。ただ真実をもって主の前に出て、渇いて求めよう。約束を信じて光に従おう。たとえ小さな光であっても従おう。

2.救霊の愛に燃やされていることだ。

私たちの回りには、何と多くの滅びゆく魂がいることか。イエスは、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り倒れているのを見て、憐まれた(マタ9:37)。

息子、娘が預言をするとは、神の救いのみ言葉を宣べ伝えることだ。若者たちが見る幻とはリバイバルの幻、老人たちが見る夢とは神の御国の到来の夢だ。高齢者が希望に満ちた夢を見るとは、何とすばらしいことか。

そのためには、私たちが神の霊を注がれ、満たされて遣わされなければならない。イエスがパブテスマを受けられたとき、聖霊が降り、「これはわたしの愛する子…」との天からの声があり、主は公生涯へ立ち上がられた。私たちも内住の主をいただいて、父に信任され、父なる神の働きに派遣されたい。

時は近づいている。もっと緊迫感をもって福音を伝えたい。滅びゆく多くの魂に重荷を与えられたい。主は信任する者に魂への重荷を与え給う。終わりのとき、主の前に立ったとき、恥じ入ることがないようにしたい。

あなたは主にお会いする備えはできているか(アモ4:12)。