礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.09.17

信仰のチャレンジに応えて

ヨハネ11:17-45

神が我らに求め給うものは信仰、神が成し給うと信じる信仰だ。イエスがマルタに要求された信仰は、不可能を可能にする神への信仰だった。人間的には絶望であっても、成し給う神を信じる信仰だ。

ベタニヤのラザロは、重病で危篤だった。イエスに知らせが届けられたが、主は「この病気は死で終わるだけのものではなく」と言われ、「神の栄光のためのものです…」(4節)と言われた。主がベタニヤヘ行かれたのは、ラザロの死後4日目だった。それは主が多忙だったからではなく、冷淡だったのでもなく、ただ神の栄光が現されるためだった。

イエスは墓の前で涙を流された(35節)。その涙は、①親愛なる友の死への隠さぬ追悼の涙、②肉親の死を悼む人々への深い同情の涙、③死に定められた罪人への憐れみの涙、④人間を死に縛り付けるサタンヘの激しい怒りの涙だった。

イエスは、墓の入り口の石を取りのけるよう命じられた。マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう…」と言った。当然の反論だ。誰が見ても正論だ。しかし主は、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と…」(40節)と言われた。常識から逸脱しているとも取れるし、盲信的とも取れる言葉だ。しかしこれが信仰の言葉だった。

主は、「わたしは、よみがえりです。いのちです…」(25,26節)と言われ、マルタに信じるかと尋ねられたとき、彼女は「はい。主よ」と答えた(27節 口語訳では「主よ、信じます。」)。しかし、それは頭だけの信仰だった。いざ信仰を働かさなければならない場面で、働かすことが出来ない。人間的な常識だけが働き、無理だ、出来ない、不可能だ…と判断してしまう。

神の求め給うは、この世的な常識ではない、信仰だ。自分にはできないが、神にはできると信じる信仰だ。非常識なのではない、超常識だ。人間的には不可能で絶望だが、全能の神には可能だと信じる信仰こそ、神は喜ばれる(ロマ4:17,18)。

イエスがラザロを生き返らせられたのは、マルタたちが、お言葉ですから…と従って石を取りのけたからだ(41節)。嫌々、渋々、半信半疑ではなく、信じて従ったからだ。ラザロは生き返り、多くの人々がイエスを信じ、神の栄光が現された(45節)。

神は、我ら一人一人の魂に救いと聖潔の全き贖いのみわざを成したいと願い給う。御言葉に従えば、必ず全き救いに導かれる(ヤコ1:22b、21)。また教会に、そして家庭や地域に栄光を現したいと願い給う。我らはそのために祈るが、どれだけ信じて祈るだろうか。

神は御業を行いたいと願われるのに、我らが不信仰なら行うことができない。不信仰とは神を信じないことだ。これがどれほど神を悲しませることか(マル6:5,6a)。

神が最も喜ばれるのは、我らの功績や手の業ではなく、主がなし給うと信じる信仰だ(ヘブ11:6)。信じるなら神の栄光を見る。信じないから栄光を見られない。単純明快だが厳粛な事実だ。

神の栄光を見せていただきたい。もっと主を信じよう。信じると言ったら徹底的に信じることだ。「このことを信じますか。」(26節)との鋭い問いは、我らに向けられている。「主よ、信じます」と答えたい。

我らのために御子をも惜しまずに与え給うた神を、我らの救いを十字架上で成し遂げ給うた神の子イエスを、我らの救いと聖潔の全き贖いを完成し給うた主を、わが主と信じ、信頼しよう。