礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.09.04

主の軍の将の前に

ヨシュア5:13-6:21

モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエルの民は、神の約束の地、乳と蜜の流れる地カナンを目指した。彼らはヨシュアに率いられ、信仰によってヨルダンを渡り、カナンに入った。カナンでは今までとは全く違う新しい生活が始まった。まず彼らは、神との契約のしるしである割礼を受け、神の所有になった(5:2)。また、カナンの地の産物を食べるようになった(5:12)。

それで、何も問題がなくなったのではない。むしろ、難攻不落の要塞エリコを攻略しなければならないという大問題があった。城壁に囲まれたその町は、貧弱な武装しかしていない民の前に立ちはだかった。常識的には攻略不可能だ。今まで信仰に立ってやってきたヨシュアも、思い悩み、恐れた(5:13)。

しかし、彼は目を上げた。すると、抜き身の剣を持って向かって立つ人がいた(5:13)。その人は彼に「われはエホバの軍旅の将として今来たれるなり」(文語)と言った。その人は主の軍の将、つまり主ご自身だった。自分たちをエジプトから贖い出し、荒野を導き、ヨルダンを渡らせ給うた主だった。ヨシュアの目に、もうこの御方しか見えなくなった。問題は厳然としてある。状況は変わらない。しかし、主の軍勢の将が立ち給う。この御方で十分だった。

ひれ伏す彼に、主は「足のはきものを脱げ」と言われた。はきものを脱ぐことは権利の譲渡を意味する。“自分はこうやってきた、これを経験してきた、これを得てきた”などという一切を主の手に明け渡すことだ。

彼はそのようにした。全能の主に全面降伏したのだ。その後、戦いの方法が示された(6:3-5)。常識では考えられない不思議な方法だった。しかし、主は「見よ。わたしはエリコ…を、あなたの手に渡した」(6:2)と断言された。敵はすでに主の手中にあるというのだ。

ヨシュアと民は信仰をもって出陣した。先頭は武装した者、続いてラッパを吹く祭司7人。続いて契約の箱という順序だ。先立ち給うは大祭司イエスで、それに神の臨在が伴う。我らはその後に続くのみだ。普通、回るだけで城が落ちると考えるのは非常識的、非理性的だ。しかしみな信仰に立っていた。そして信仰のごとく成った。エリコは陥落した。神の方法と、民の信仰による大勝利だった。神の御業は、信じるところにこそ現される。神は全能のお方だが、こちらの全き信仰が求められる(創世記17:1)。

我らの前にも、生活上の困難な問題、心の悩みなど、様々なエリコが立ちはだかる。しかし、最大のエリコは自分自身、自らの罪の性質だ。救われたのにまだ神に喜ばれないのは、自分が御言葉の標準に合致していないからだ。突き詰めていけば、結局自分が一番可愛いのだ。

真に救われた魂は、必ず自己の醜さに突き当たる。こんなはずではなかったと思い悩む。そこから、ヨシュアのように、一人主の前に出るのだ。そして目を上げ、十字架の主を仰ぐのだ。そこに古き自分がキリストと共に十字架につけられている事実を、信仰をもって受けとめ、虚しくなるなら、そこにキリストが臨み給う。そこから勝利の歩みが始まる。喜んで主に従う生涯、主に喜ばれる生き方が始まる。

いつまで不信仰・不従順の荒野の旅を続けるか。いつまで主を悲しませているか。信仰に立とう。主の軍の将は我らの前に立ち給う。この主の前にはきものを脱ごう。屈服し、明け渡そう。イエスは主として内住し給う。

自我のエリコが崩れたなら、その他のどんな強固なエリコも崩れる。我らがなすべきことは目を上げて主を仰ぐことだ(5:13、マタイ17:8)。軍の将の前にはきものを脱いで、信じて待ち望もう。