礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.07.24

主イエスが与える水

ヨハネ4:1-26

イエスは、ユダヤからガリラヤに行かれるのに、「サマリヤを通って行かなければならなかった」(4節)。歴史上の理由から不和の関係だったユダヤ人とサマリヤ人は、普通は他の道を行き来していたのだが、イエスには必然的な理由があった。サマリヤに一人の救いを必要としている魂がいることを知っておられたのだ。

第六時ごろ(昼の12時ごろ)イエスが旅の疲れを覚えて、スカルの町の共同の井戸端に座っておられると、一人の女性が水を汲みに来た。水汲みは普通、涼しい早朝にするものだが、彼女はあえて暑い盛りのその時を選んで水を汲みに来た。わけあって、町の女性たちと顔を合わせたくなかったのだ。しかし、はからずも(ルツ2:3)彼女はそこでイエスと出会った。それは神の時だった。

イエスは彼女に一杯の水を求められた。そこから、彼女に対するイエスの魂の取り扱いが始まった。主が「神の賜物」「生ける水」(10節)を示されると、彼女の内に渇きが起こされた。主はすかさず、主が与える決して渇くことがない水を紹介され、しかも、永遠のいのちへの水が湧き出る泉が与えられると約束されて、彼女の渇望をさらにかき立てられた。

彼女はその生ける水をイエスに求めた。ところが、主は夫を連れて来るように言われた(16節)。彼女が町の人との接触を避けていたのは、夫のことで後ろめたいものがあったからだ。彼女は今まで、次々と5人の男性と暮らし、今の男性とも正式な結婚をしていなかった。正しくない異性関係こそ、彼女の罪だった。

彼女は、自分の暗闇の部分にイエスからメスを入れられ、ごまかすようにして、礼拝のことに話題を移したが(20節)、主はそこからも彼女を導かれた。すなわち、真の礼拝がどういうものかを教えられ、サマリヤ人特有の偽りの礼拝になじんだ彼女の心を、天地を創造し支配し、またすべての者を愛しておられる父なる神に向けられたのだ。

彼女は救われた。そして、人々を避けていたあの彼女が「来て、見てください…」(29節)と町の人々に証しした。人々は続々とイエスのもとへ導かれ(30節)、多くの者が救いにあずかった(39節)。主は2日間の滞在中に集会を開かれ、福音を語られた。人々は自分の耳で福音を聞いて、イエスを信じた(42節)。一人の女性の救いが導火線になり、スカルの町にリバイバルのみわざが起こされた。

我らの間にも神のみわざが起こされる。しかし、その前にきちんとされるべき事がある。罪の問題と礼拝の問題だ。両者は不可分の関係にある。

本来向かうべきところに向かっていない我らの心の状態こそ、我らの罪だ。天地を創造された神(創世記1:1)は、人間を神のかたちに創造された(創世記1:27)。神との交わりの中に生きる者として造られたのだ。ところが人はサタンにそそのかされて御言葉に背き、罪を犯した(創世記3:1-6)。神を霊とまことによって礼拝することが、神の被造物であり、神から愛されている我らの魂のおるべきところなのに、それが失われ、今にまで至るのだ。

イエスは我らに、その罪の問題の解決を求められる。自分では解決できない。だから、主が十字架のうえで贖いを成し遂げてくださった。我らが自分の罪を悔い改め、十字架を信じるなら、我らの罪は赦され、まことの神を礼拝する者となる。この救いこそ、イエスが与えてくださる生ける水だ。

さらに、この水を得た者は、内に泉が起こされ、永遠のいのちへの水が絶えず湧き出る者となる。周囲の人々をも潤していく者となるのだ。これは、赦罪だけでなく、内に主を宿し、いつでも喜んで主に従うという聖潔(きよめ)の恵みだ。

我らのうちにこの生ける水への渇きと、み言葉に聞き従っていく謙虚さがあるなら、主イエスは必ず与え給う。