礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.01.03

信仰による歩み

Ⅱコリント4:16-5:10

この第二の手紙は、第一の手紙と筆のタッチが違う。パウロが感情を赤裸々に表現している。コリント教会のある者が、パウロの使徒としての奉仕に厳しい批判を浴びせ、教会で混乱が起きた。人の声に惑わされる者が出た。個人的な召命に対する攻撃に対して、パウロは福音そのものの特質を説くことで対応した。だから、自ずと感情を吐露する場面が多くなった。

世にあって我らが勇気を失い、落胆させられるという要因は多い。しかし彼は勇気を失わないと言った(4:16)。なぜか?

第一に、内なる人が新しくされていくからだ。外なる人は日々衰える。老化は否応無しに進み、ついに朽ち果てる。しかし、内なる人は日々新しくなる。内なる人とはキリストに対する信仰だ。これは日々新たにされる。そもそも信仰とは新たにされていくものだ。成長するものだ。信仰とは信頼だ。主に対する信頼が日々深まっていくのだ。

第二に、重い永遠の栄光が約束されているからだ。パウロは「今の時の軽い患難」(4:17)と言うが、彼は激しい患難に遭った。決して軽くはなく、むしろ耐え難い苦難だった(2コリ11:23-27)。しかし、のちの栄光の重さに比べれば、取るに足りないと受けとめた。約束されている栄光はそれほど重いのだ。その栄光とは、この肉の身体が主と同じ栄光の姿に変えられることだ(2コリ3:18、1コリ15:52)。贖われた者は、すでに国籍が天に移されている。やがて体も天の処に挙げられる。神の資産をそのまま受け継ぐ者になる(ロマ8:14-17、ガラ4:5-7)。これ以上の栄光はない。どっしりと重い栄光を思えば、地上の患難は軽い。

パウロは「私たちは、見えるものにではなく…」と言う。希望に満ちた生涯か落胆の連続の生涯かは、何に目を留めるかで決まる。この世の目に見える患難は一時的だ。いかに激しく、耐え難く見えても必ず終わる。しかし、今は見えない栄光は永続的だ。この永遠の見えない栄光に目を留め、待ち望む者に、あふれる希望が与えられる。我らは、見えない神を信じ、見えないキリストに従い、見えない天の資産を望みつつ歩むのだ(5:7)。

試練・患難に遭うとき、目を見えざるに在し給う御方に目を留めるなら、永遠の重い栄光が見える。サタンは、目に見える現実に目を向けさせ、落胆させようとしてくるが、我らは目を常に上に向けるのだ。

パウロは永遠の栄光を幕屋・建物になぞらえる(5:1)。肉体の命が終わると、朽ちない栄光の体が準備される。キリストと同じ栄光の体だ。彼はまた着物にもなぞらえる。栄光の体を上に着よう、今いただきたいと苦悶する。パウロの地上の生涯は厳しいものであるだけに、早く栄光の体をいただきたいとうめく(5:4)。栄光の望みへの彼の期待の大きさがうかがえる。我らは、苦悶するほど期待しているか、渇望しているか(マタ11:12)。

栄光の体を着たら、裸のままではいない(5:3)。もはや醜い恥は被い隠される。いちじくの葉(創3:7)のような一時的なごまかしではない。罪は根底から永遠に消し去られ、神の前に聖い者にされるのだ。我らをこの栄光にかなう者にし給うたのは神だ(5:5)。神は我らを、十字架の贖いのゆえにこの栄光にかなう者とし給うた。その保証として御霊を下さった。内住の御霊は栄光の希望の保証だ(エペ1:13,14)。この望みのゆえに勇気が与えられる(5:6)。

現実の歩みには困難が多い。落胆させられることもある。しかし、栄光の望みを思い見て、内住の御霊に励まされる。こういう天的な生涯を歩めるとは、なんという恵みか。

我らの歩みは信仰による歩みだ。栄光の望みを信じる信仰によって歩む者になりたい。栄光に入る日を待ち望もう。我らのために神の約束がある(2ペテ3:13)。信仰による歩みの行き着くところは、栄光の新天新地だ。この終わりの時代、栄光を目指して、希望をもって進もう。