キリストこそ私たちの平和
エペソ2:11-22
本日は、長崎原爆投下の日だ。真の平和が何かを問うべきときだ。エペソ2章ほど、私たちに真の平和を教えてくれる箇所はない。
2章前半に克明に描かれている通り、かつての私たちは、神から遠くかけ離れ、平和など微塵もない存在だった(2:1-3)。世界に平和が実現しない理由は、人類が神から離れ、罪の中を生きているからだが、そんな自分たちの実態に気がついていない、認めようとしない、むしろ一層神から離れていこうとさえしている(ロマ3:10-18)。
聖書が初めて語る争いといえば、アベルとカインの記事だ(創4:1-16)。二人がそれぞれ献げものをしたとき、神はアベルの献げもののほうを受け入れた(創4:4b, 5a)。神がカインを蔑んだのではない。自らの心の中を省みるように促されたのだ(創4:5b-7)。しかし彼は罪に走り、アベル殺害を実行した。神は、そんな彼になおも語りかけ、自分のしたことを認め、悔い改めるようにと迫った(創4:10, イザ55:7)。聖なる神は、罪と同居されないからだ。ところが彼は、悔い改めようとせず、自分のほうから神から離れて、滅びる者となった(創4:16, 詩73:27)。これが、神から離れ、平和を実現できない人間の発端だ。
カインが払い除けた神の憐れみの御手は、新約の時代、神のひとり子キリストの十字架と復活によって明瞭に現された。まだ私たちが遠くにいたときから、キリストは私たちのもとに駆け寄り、真実の愛を現してくださった(ルカ15:20, エレ31:3)。どんな者でも、自分の罪を悔い改め、キリストを自分の救い主と信じるなら、その信仰によって罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。キリストが十字架で流された血によって、神から遠く離れていた私たちが神に近い者としていただき(13節)、キリストによる神との平和が与えられる(ルカ8:48, ロマ5:1)。カインから代々受け継ぎ、せっせと罪を重ねて塗り固めてきた敵意という隔ての壁を、キリストは十字架の血潮によって打ち壊し、平和を実現してくださった(14-16節, コロ1:19-22)。
こうしてキリストの救いをいただき、キリストの平和を与えていただいた者はやがて必ず、自らの内にある罪の根に気が付く。与えていただいた平和にふさわしい歩みをしていない実態、神との平和を与えていただいたはずなのに、神に逆らい、神に敵対している実態、神に近い者とされたはずなのに、神から遠ざかろうとしている実態だ(イザ29:13)。こうした肉を見過ごしにし、野放しにするなら、私たちはやはりその肉のために滅ぼされてしまう。私たちがなすべきことは、自らの汚れを認め、汚れから離れること、そして、砕かれて神に近づくことだ(2コリ6:14-18, 18節, ヤコ4:8)。私たちが心から神の前に出ていくなら、神は真実をもって導き、私たちに十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。キリストが、信仰によって私たちの内に住んでくださり、私たちの心の要石となってくださる(20節, 1ペテ2:6)。キリストの平和が私たちの内に実現し、聖なる神の御前に立てる聖なる者となることができる(1テサ5:23)。私たちを通して、平和と聖さが現されていく(ヘブ12:14)。
キリストこそ私たちの平和だ。私たちがキリストの救いをいただき、さらにキリストに内に生きていただくことこそ、真の平和だ。





