しっかりしなさい。わたしだ
マタイ14:22-33
本日開かれているのは、イエスが湖上を歩かれる有名な箇所だ。直前には、五千人以上の人々を満腹させたという奇跡が記されている(14:15-21)。そのすぐ後で、イエスは弟子たちに舟を出すように命じられた(22節)。マルコでは、「無理やり舟に乗り込ませ」たとある(マル6:45)。ヨハネは、人々がイエスを王に仕立てようとしていたと語る(ヨハ6:15)。肉欲を満たすことに執着する人の罪の姿であり、それを巧みに利用するサタンの策略でもある。
イエスが、無理やりにでも弟子たちをせき立てて、彼らだけで舟を出させた目的は、そのような罪とサタンに縛られた人間のために、また、その人間を救うというご自分の使命のために祈る時間を確保することだった(23節)。同時に、弟子たちの信仰を試して強め、ご自分の使命を学ばせることでもあった。
向かい風に一晩中悩まされ、疲れ切っていたところに、湖上を歩いてくる人影を見て、弟子たちはすっかり怯えてしまった。そんな彼らに向かって、イエスはすぐに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけられた(27節)。「わたしだ」は、“わたしはある”とも訳すことができる、神の呼び名だ(出3:13-15)。ここでイエスは、ご自分が神から遣わされた救い主であることを示しておられる。ご自分が成し遂げる救いがあるから、「しっかりしなさい」と声をかけることがおできになるのだ。
キリストは、罪の中に死んでいた私たちにも「しっかりしなさい。わたしだ」と声をかけ、ご自分が救い主であることを示してくださった。その罪のために滅びる私たちを救うために、キリストは十字架の上で死なれ(ヨハ8:24,28)、死からよみがえられた。私たちは、自らの罪を悔い改め、キリストを私の救い主と信じるだけで、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる(9:2b,22)。この救いは、世とサタンに対する勝利だ(ヨハ16:33b)。世に勝ってくださったキリストのように、私たちも世に勝つ者となるという約束だ(1ヨハ5:4,5)。
だが、救われた者はやがて必ず、世に勝てない自分の姿に気が付く。救われてもなお心の中に罪の性質があるからだ。信仰による勝利が示されているにも関わらず、世に目を向け、罪をなおも慕っている。神に喜ばれる祝福が示されているにも関わらず、汚れから離れられず、汚れに溺れている。主の手は伸ばされているにも関わらず、その手を無視し、払いのけ、居心地の良い罪の中にとどまり続ける。イエスから目を離したペテロが溺れかけたように、私たちも世と世にあるものに目を奪われるなら、肉の中に溺れていく。いや、自分が溺れていることに気がつこうともせず、その事実を認めようともしない。この肉を抱えたままでは、私たちはやはり滅ぼされてしまう。
ペテロは溺れかけたとき、「主よ、助けてください」と叫んだ(30節)。私たちも、自分の汚れた姿を認めて、砕かれて主の前に出て、主に助けを求める必要がある。私たちがそうするなら、神は手を伸ばしてつかみ、引き上げてくださる(31節, イザ41:10,13)。真実をもって私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働かれる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。イエスとペテロが舟に乗り込むと風がやんだように(32節)、キリストが内に乗り込んでくださるなら、あれほど荒れ狂っていた肉の嵐は穏やかになる。内に働かれるキリストから信仰の目を離さず、このキリストによって肉に勝利し、信仰の歩みを送ることができる(ヘブ12:2a)。
「しっかりしなさい。わたしだ」と、キリストは私たちにも声をかけてくださる。自らの魂に目を向け、神の前に出ていきたい。





