わたしの心だ。きよくなれ
マタイ8:1-17
今日の箇所には、4つの癒しがある。ツァラアトの人の癒し(1-4節)、百人隊長のしもべの癒し(5-13節)、ペテロの姑の癒し(14,15節)、そして、悪霊につかれた人たちの癒し(16,17節)だ。
イエスは、「お心一つで…」と癒しを求めてきた人に対して、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた(2,3節)。神は聖なるお方だ。この聖なる神の御心は、旧約聖書の時代から明確に示されていた。すなわち、私たちも聖なる者となることだ(レビ11:44a, 1テサ4:3a)。しかし、罪のために神から遠く離れた私たちは、自らの汚れによって神の御心にかなうことができない。今日の記事でツァラアトを癒していただいた人も、イエスに従うことができなかった(マル1:45)。生まれながら罪を持っている私たちは、神の御心に従うことができず、その罪のために神の怒りを受けて滅びる存在だ(エペ2:1-3)。
このような罪深い私たちを救うために、キリストは私たちのもとに遣わされてこられた(ヨハ1:1,14a)。キリストは、父なる神から与えられた権威をもって福音を語り(マタ7:28,29)、権威をもって私たちの罪を赦してくださる(マタ9:6)。だから、今日の記事の百人隊長は、軍隊における権威になぞらえ、キリストの御言葉を信じた(8,9節)。
続くペテロの姑の癒しにおいても、ルカは、イエスが神の権威を行使されたことを記す(ルカ4:39a)。だが、マタイは、「イエスが彼女の手に触れられた」ことに着目する(15節)。私たちの手に触れて痛みと苦しみを知り尽くすために、キリストは人となってくださった。私たちの手を取って起こしてくださるために(マル1:31)、魂を滅びから救うために、十字架にかかって死なれ、死からよみがえられた(ロマ4:25)。
悪霊につかれた人たちの癒しがイザヤ書の成就だと語られているように(16,17節)、キリストは私たちの罪を負い、咎を担い、十字架の上で命を投げ出してくださった(イザ53:4-6)。それは、私たちが義のために生きる者となるためだった(1ペテ2:24)。どんな人であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを私の救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。魂が癒やされ、キリストを信じる者として新しい命を生きていくことができる。
こうして救われた者はやがて必ず、自らの内側に罪の性質があることに気がつく。神の御心が示されていても、罪を慕って生きている。表向きは取り繕っていても、一皮剥くと本性が顔を出し、汚れをばらまいている。御言葉を信じる、従うと口では言っていても、信じているのは世と世にあるもので、従っているのは自分の腹という実態がある。このような肉を抱え持ったままでは、私たちはその肉のためにやはり滅ぼされてしまう。私たちがなすべきことは、自分の肉の姿を認め、砕かれて神の御前に出ていくことだ。私たちがそうするなら、神は真実を持って私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内に生きて働かれるキリストを通して、神の御心にかなう生き方をすることができる。キリストを信じる信仰によって生き(ガラ2:20b)、何が神に喜ばれるのかを悟って生きる者となる(ロマ12:2)。
「わたしの心だ。きよくなれ」と、神は私たちにも求めておられる。私たちの生き方はどうか。神の御心にかなっているか。光を当てていただき、御心にかなった生き方を求めたい。





