礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2026.05.24

五旬節の日になってToday

使徒2:1-21

 本日はペンテコステ記念礼拝だ。イエスは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられ、40日に渡って弟子たちにご自分を現され(1:3)、天に昇られた(1:9)。弟子たちにイエスが残された約束が、聖霊だった(1:4,5,8)。彼らは、この約束を信じ、イエスから命じられた通りに聖霊を待った(1:14)。砕かれた結果の悔い改めと、信仰に満ちた祈りと、真剣な渇きが、彼らの中に起こった。そして10日後、ついに約束の聖霊が降った(1-3節)。不思議な現象と共に、弟子たちは様々な国の言葉で語り始めた(4節)。騒ぎを聞きつけて集まった人々に対して、ペテロが立ち上がり、大胆にメッセージを語った(14節)。


 ペテロのメッセージの中心は、自分たちの上に起こった出来事が預言の成就であり、聖霊の降臨であること(16-21節)、キリストは、人々の手にかかって十字架にかかり死なれたが、よみがえられたこと(22-32節)、そして、神の右に上られたキリストが、約束の実現として聖霊を注いでくださったこと(33-35節)だ。


 これらの中心を抑えた上で、ペテロは、”あなたがたがキリストを十字架につけた”と迫った(36節)。私たちも、自分がどれほどの罪人であるのかを、主から迫っていただかなければならない。自分の罪深さを目の当たりにし、砕かれて、神の前で悔い改めるためだ(1テモ1:15)。心から悔い改めた者が、キリストの十字架を仰いで、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(38節, 3:19)。


 こうしてキリストの救いをいただいた者はやがて必ず、自らの内側にある罪の性質に気が付く。神を信じていると言いながら、神に背き、逆らっている。神を愛していると言いながら、神を押し除け、世を愛し、自分に一番の愛情を傾けている。神に従っていると言いながら、自分の満足、自分の都合、自分の喜びを追い求めている。このような肉がのさばっている限り、私たちはやはり滅ぼされてしまう。


 ペテロはヨエルの預言を引用した(ヨエ2:28-32)。ただ、最後の32節後半が省略されている。人々が思い起こすために、そして、目が開かれるように、ペテロはあえて省略したのではないか。この後半にある通り、エルサレム、つまり、キリストの十字架の下こそ「逃れ場」(ヨエ2:32新共同)だ。キリストの十字架に逃れ、十字架を仰ぐ。そして十字架に己をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24,2:19b,20a)。私たちは、内に生きて働かれるキリストを通して「主が呼ばれる残りの者」(ヨエ2:32新共同)となる。「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタ3:16,17)と、私たちをも呼んでくださる。キリストによって下に根を張り、上に神を喜ばせる実を結んでいく(イザ37:31,32)。


 「五旬節の日になって」(1節)は、時が満了し、達成するという表現が使われている(英語”When the Day of Pentecost had fully come”)。待ち望む弟子たちの心が整えられ、神の時が満ちたところに聖霊は与えられた。時が満ちてキリストは降誕され(ガラ4:4)、時が来て十字架と復活が成し遂げられた(ヨハ13:1)。間もなくキリストが再び来られる日も、時が満ちて実現する(エペ1:10)。私たちの内に聖霊が降られる時もそうだ。神は、私たちの心をご覧になり、私たちのためにも時を満たして聖霊を与えてくださる。信じて待ち望みたい。