礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.09.28

砕かれた霊、砕かれた心

詩篇51:1-19

 今日開かれている詩篇51篇の標題には、「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」とある。ダビデは、神に選ばれ、神に従った王だったが、そんな彼も罪を犯した。姦淫と殺人の罪だ(2サム11章)。その罪を指摘するために、預言者ナタンが神から遣わされた。彼の指摘を聞くと、ダビデは即座に悔い改め、神もまた彼の罪を赦された(2サム12:1-13)。この詩篇は、そのときに詠まれた歌だと言われている。


 まず、1-9節には、ダビデの徹底した認罪が言い表されている。特に、1,2節には「背き」、「咎」、「罪」と3つの単語を用いられている。「背き」は、”突っ走る”という言葉が語源となっており、「咎」は、”曲がる”という言葉が語源で、「罪」は、”失う、迷う”というニュアンスがある言葉だ。私たちは、悪へと突っ走り、神に背く者、神が与えてくださったまっすぐの道を自分勝手に曲げる者、永遠の命を失い、正しい道がわからずに迷う者だった。どれも罪のために神から離れた私たちの姿だ。生まれたときから罪を抱え持ち、その罪のために滅びなくてはいけない者だった(エペ2:1-3)。


 そのような私たちの罪を除き、洗い、白くするために、神はひとり子キリストを私たちのもとに遣わしてくださった(7節)。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちの救いの道が完成した。誰でも、ダビデのように自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。背きの中に死んだ者から永遠の命の希望に生きる者、滅びに至る道をさ迷い歩く者から神の前の道をまっすぐに歩む者へと変えていただくことができる(エペ2:4,5)。


 こうしてキリストの救いをいただいて歩み始めた者は、やがて必ず自らの内にまだ罪の性質があることに気が付く。神に背いて、肉のままに突っ走っている性質、正しい道が示されているのにそれに従おうとせず、自らの欲と傲慢さをもって曲げている性質だ。このような肉を抱え持ったままでは、私たちはやはり滅びてしまう(マタ22:11-13)。


 私たちがなすべきことは、自らの肉の姿を認め、砕かれて神の前に出ていくことだ。私たちがそうするなら、神は私たちに十字架を示してくださる。示された十字架に自らの肉をつけて始末するなら、キリストが内に生きてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは内に生きて働かれるキリストによって、神の前をきよく、まっすぐ、神に喜ばれる者として生きることができる。きよい心が造られ、揺るがない正しい霊で生きる新しい生き方が始まっていく(10節、口語訳、2コリ5:17)。


 「砕かれた霊、打たれ、砕かれた心」を神は喜ばれる(17節)。イエスが語られた例え話、パリサイ人と取税人の祈りのようだ(ルカ18:9-14)。「罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人の心は、まさに砕かれた霊、砕かれた心だった。


 私たちの心はどうなっているか。頑なさ、傲慢さ、歪みといった神に喜ばれないものを捨て、砕かれて神の前に出ていきたい。神はそのように出てくる者を必ず迎えてくださり、愛と真実をもって導いてくださる(詩34:18)。