礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.12.02

まことの光として

ヨハネ1:1-13

アドべント(待降節)を迎えた。キリストの降誕を喜ぶクリスマスを心から待ち望みたい。クリスマスは、キリストが礼拝されるべきお方である事が明確にされる時だ。なぜ世界中でクリスマスが祝われるのかと言うと、キリストの降誕が我らの救いに直接かかわるからだ。

 

キリストとはどういう御方か。第一に、初めからおられた御方だ(1節)。キリストは神ご自身だった(2節)。キリストは神と共に天地創造の業に当たられた(3節)。その御方が人となってこの世に来られた(14節)。永遠の神が、限りある人間となって来られたのだ。

 

第二に、光として来られた御方だ(9節)。光は暗い部分を照らす。キリストは我らの心の暗い部分である罪を照らされる。罪とは、憎しみ、妬み、自己中心など、神に喜ばれない心と行いだが、その根は神からの離反であり、キリストを受け入れない心だ。

元来人は神のかたちに創造された(創1:26,27)。神のかたちに、つまり神との自由な交わりに生きる者として造られたのが人間だ。しかし、サタンにそそのかされ、神の御言葉に背き、神から離れた。人がキリストを受け入れないのはそのためだ(10節)。神は我らを愛し給うたのに、我らは拒否し、キリストを十字架に付けた(11節)。キリストの光は我らにこの罪を示す。

さらにキリストの光は、罪の赦しを与える(ヨハ8:11)。キリストは我らの罪のために十字架にかかられた。そして、十字架の上から我らに罪の赦しの恵みを与え給う。

 

第三に、神の子どもとなる特権を与える御方だ(12節)。罪のために滅びゆく我らを、神は「我が子」と呼び給う。我らはかつては罪の子、滅びの子だった。しかし、キリストの十字架の贖いによって神の子どもにされる。子どもは親に似る。神の子どもにされたら、神の性質に似る者になる。神の性質を受け継ぐ者になるのだ(2ペテ1:4)。神の性質とは神の愛、神の聖(きよ)さだ。罪人の我らをどこまでも愛し給うた神の愛(ヨハ3:16、ロマ5:8)をいただいて、我らも神と人を愛する者とされる。また、神の聖さ(1ヨハ1:5、2テモ2:13)にあずかる。神の性質たる光、いのちの光を内に持つ歩み(ヨハ8:12)をなす者になる。

自分には無理だと思ってはならない。これは神の約束だ(1ペテ1:16)。我らを神の子どもとし、神の性質にあずからせるのが光なるキリストなのだ。

 

神の子どもとなる特権は、一人の例外もなく提供されている。ただ信じること、素直に受け入れることが求められる(12節)。光が当らないように、光に探られないようにとすることも、できなくはない。しかしそれでは贖われた甲斐がない。光を光として受け入れる素直さがあれば、光は必ず届く。

イエスはまことの光として来られた。我らの魂を照らし、全き救いを与える御方、十字架の贖いを成し遂げて、我らを罪と汚れから全く救って、我らを神の子どもとし給う御方として来られた。信じよう。必要なのは信仰だけだ。

クリスマスは御子を信じる決断をする時、信仰を確かめる時だ。まことの光を受け入れて、新しい生涯を歩みだそう。