礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2014.07.27

祝福に満ちた栄光の福音

Ⅰテモテ1:1-20

エペソ教会の青年牧師で、若さと未熟のため困難を覚えがちだったテモテに、パウロは牧会上の指導をしたためて本書を送った。彼はパウロの実の子ではないが、信仰による霊の子だった(2節)。パウロから本物の信仰を学び、信仰が深められたのだ。

彼はエペソ教会に派遣されたが、すぐに問題に直面した。まず形式的な律法主義の問題があった(3,4節)。大きな戦いで、ともすると意気阻喪した。そうした中で、彼を支えたのはパウロから学んだ本物の信仰、すなわちイエス・キリストに対する信仰、純粋な福音に対する信仰だった。

パウロのテモテへの命令は、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標として」(5節)いた。彼の動機はいつも愛だった。多くの教師らはそこから逸脱し、空想話や形式主義に陥った。パウロが伝えたのは、祝福に満ちた神の栄光の福音(11節)、キリストの十字架と復活の福音、我らを救い、潔め、栄光の希望に輝かせる福音だった。

パウロは自らの弱さを自覚していた。そして、自分を強め給う主を知っていた(ピリ4:13)。自らの弱さを知った者が、強め給う主を知る。徹底的に自らの弱さを知り、目を上げれば、主が立ち上がり給う。

彼は主から忠実な者と認められ、福音宣教の務めに任じられている確信があった。忠実な者とは、自らの弱さに徹し、万事を可能にする主を知った者だ。doing(ドゥーイング)ではなくbeing(ビーイング)だ。そういう魂になっている者を、主は信任し給う。

パウロは、はじめから福音を知っていたのではない。「神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」(13節)、熱心な教会の迫害者だった(ピリ3:6)。ただ、無知ゆえの所業で、キリストを知らないでキリストを迫害していた。だから憐れみを受け、救われ、造り変えられ、福音の深みを知る者にされた。

彼は、自分こそ罪人のかしらだと言う(15節)。彼は心底そう思っていた。彼は身分、出身、功績においては申し分のない者だった(ピリ3:6)が、内側の問題だった。無知のゆえとは言えキリストに逆らう者、十字架の贖いを踏みにじる者、ほかの誰よりも罪深い者で、これは彼自身の真摯な自覚だった。

そんな罪人を救うために、キリストは来てくださった。神の独り子、永遠の初めから神と共におられた御方が、肉体を備えられ、御旨に従われ、十字架の死に至るまで従順な御方として来られた。信じる者が一人の例外もなく救いを得るため、罪を悔い改め十字架を信じて、罪の赦しを得るため、さらには、古き人が十字架に釘付けられ、キリスト内住の恵みを得るためだ。

「キリスト・イエスは、罪人を救うために…」という言葉は、聖書全体のメッセージであり、確実な福音だ。削減も追加も不要、割引も水増しもしてはならない。我らを確実に救い、潔め、栄光の姿に変貌させて、主の前に立たせる福音で、そのまま素直に受け入れるに価値ある真理だ。この福音の恵みに与れば、この福音を伝えずにはおれない。我らはみな栄光の福音の使者に召されている。召されている以上、責任を果たしたい。

信仰の戦いを立派に戦いたい(18節)。戦いの相手はサタンだ。彼は強敵だが、我らには福音がある。確実な福音と信仰が武器だ。善戦し、勝利させていただこう。